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カテゴリー: ためになる話

ちょっとためになるかも?

ためになる話

地元の小学校の六年生にクラブ活動(竹とんぼクラブ)でお話ししたこと。
「リンカーンは、アメリカンコーヒーを3杯のむと憂鬱が直る」と言った。

解説。

リンは木 木、カーン→缶、は→ワ。それで  UTU1.gif
アメリカン→米国→※、コーヒーでコ→コ、ヒーでヒ。
それで
 UTU2.gif
3杯→彡。それで  UTU3.gif
鬱の完成  UTU4.gif

鉄のおはなし 日本刀について

ためになる話

鉄のおはなし(1)和鉄の武器 日本刀について

日本刀の時代的分類は大きく分けて4つある。

(1)古刀(ことう)飛鳥時代大宝(西暦701年)から安土、桃山時代(1595年)までの894年間。
(2)新刀(しんとう)慶長元年(1596年)から江戸時代後期享和3年(1803年)まで207年間。
(3)新々刀(しんしんとう)文化元年(1804年)から江戸時代終わり慶応3年(1867年)まで63年間
(4)現代刀(げんだいとう)明治(1868年)から現代(2003年)まで。

形状で分けると太刀と刀に分別出来る。太刀は主に馬上戦で便利。刀は地上戦に用いると良いと言われている。

鉄のおはなし(2)刀の五ケ伝について

日本刀における五ケ伝とは5つの名高い刀剣製造産地が全国にあったということ。以後、その流れをくむ刀工が各地で刀を作り、それぞれの特徴を残しつつ現代に至るものもあると言われている。(主に古刀について話す)

(1) 相州伝(相模、鎌倉中心)

刀剣鑑定の歌に「相州伝は重ねは薄く、幅広く、切先のびて真の棟(注1)なり」と言われ行光、正宗を中心に多くの刀工が世に出た。正宗ののたれ刃文が中国の水墨画のようにすばらしく、高い評価を得ている。棟の形も他と異なり真の棟の作刀を行った。これも特徴だ。有名刀工は国光、国広、貞宗、助綱、綱広、広正、正広など(新刀、新々刀にも綱広あり)。

(2) 美濃伝(関市中心)

「美濃物は焼刃はとがり沸(にえ)つかず鎬地(しのぎじ)(注2)、柾目、膚は白ける」と言われ濃州赤坂住兼元は三本杉刃紋で有名。別に二代兼定は刃紋が互の目乱(ごのめみだれ)、のたれ乱、直刃などあり、之定(のさだ)の名を切り名刀と言われている(もちろんニセモノも多し)。他に兼氏、兼友、兼房など。新刀、新々刀、そして現在に至るも、多くの刀工が作刀に業を伝えている。

(注1)棟(むね)の名称:刀の断面の形によって次のように付けられています。

KATANA.jpg

(注2)鎬地(しのぎじ):
Aに現れる木目の柾目のような鉄はだを言います(鉄のきたえ方によって表われると言われています)

(3) 備前伝(岡山県備前市長船町附近)

刀剣鑑定の歌に「備前もの手元三寸、反り高く、匂は深く、棟焼かぬなり」と言われる。備前は古刀時代から日本を代表する大生産地で名工を多く輩出している。奥州太郎と言われる古刀「正恒」が徳川美術館に所蔵され、今から千年程前に作られた傑作だと言われている。ここ備前が大生産地であった証は、古刀時代894年間で、全国に刀工8700人程が活躍していた内で、備前には2300人がこの時代、作刀にはげんだ。(名前だけ変えた同人の刀工も多々居たと聞くが。)

備前の刀工兼光は鉄砲切り、石切り、甲割り、で知られ伝説的刀工として有名である。 実際に石が切れたかどうかは疑わしいが、甲割りは現代の剣の達人によって実際に行なわれたことが知られている。勿論、刀は兼光ではないが。

刀は武器であり道具である。ゆえによく切れ、折れず、曲がらずを目差して作られ、性能のよい刀は美しく真に魅力的である。武器や道具であった刀が、ある時代から進物品として多く用いられる様になると、美術的価値が加わり、名刀と言われる刀が大名達の間で収集されるようになった。現在では、多くの人々が美術的価値に主眼を置き、日本刀を取り引きしているようだ。

(4)山城伝(京都を中心)

京都は刀の歴史も古く、早くから有名刀工が活躍している。その代表格は三条宗近で平安中期から作刀していたと言われている。日本刀の祖で宗近の子供に吉家あり。他に有国、近村、宗利、有成(河内で作刀した)が有名で刀紋は直刃あり。丁子刃紋あり。

時代は下って、山城には刀の名門各派が生まれる。粟田口派(京都粟田口)来派、綾小路派、長谷部派など。

今回は視点を変えて刀の外形を見比べて見たい。外形で一番の特徴は刀の反りで、誰が見てもわかりやすい。たとえば(7)山城の刀と(5)(6)備前の刀、姿の違いがはっきりわかる。(1)は備前光忠で織田信長が大変好んだ刀として有名で「名物」と言える。(2)は五ヶ伝には含まれないが日本刀の初期の伯耆(島根県、ホウキの国)の安綱で「名物」。時代的には永延年間(987年頃)で平安中期の作品だとされている。

katana_large.jpg1.備前 光忠(丁子刃紋)
2.伯耆 安綱(直刃もつれ小乱れ刃紋)
3.備前 正恒(直刃紋)
4.山城 定利(綾小路派の名物、丁子乱れ刃紋)
5.備前 長光(丁子刃紋)
6.備前 国宗(直刃丁子刃紋)
7.山城 来国光(来派の名物、直刃紋)
8.山城 来孫太郎(細直刃紋)
9.相州 無銘(のたれ乱刃紋)

(5)大和伝(奈良を中心)

「大和は国のまほろば」と言い継がれて久しい。古代より大和は日本そのものであったし「日本のいちばんよい所」という意味である。

古刀における大和の刀剣も同じ事が言えるだろうか。否、京に都が遷ってからは、大和が歴史の上で華々しく脚光を浴びる事は無くなった。京と奈良は地理的に距離が近い為に刀剣の区別でも「山城、大和」と一つに言われることも多く、作風も類似点がある。

大和伝→幻の刀工として天国(アマクニ、大宝年間701~704年)あり。天国は文武天皇の宝剣「小烏丸(コガラスマル)」を造ったと伝えられている。同時代の天座(アマクラ)は天国の弟子か弟だと伝えられている。時代は下って平安時代後期に千手院(センジュイン)派の重弘(仁安年間1166~1169年)、当麻派の国行(正応年間1288~1293年)、手掻(テカイ)派の包永(カネナガ、正応年間)、尻掛(シッカケ)派の初代則長(正応年間)、保昌派の貞吉(文保年間1317~1319年)が代表格で刀の姿は腰反り気味な所も山城物に似ていて、地鉄肌は細かく地沸(ジワキ)、刀の切先の形は小丸が特徴である。

実は豊橋市の東北部に有名な古寺(徳川時代に最も栄えたと伝えられている)があり、天国が寺宝として伝承し、以前、刀剣鑑定を受けた様だが正式な発表や、宝物とした展示がない所をみると、真偽が判明しなかったと思われる。刀剣に明るい人なら天国と聞いただけでも大事件である。私の私見だか、天国はすでに刀の形をした、錆びた鉄の板と化して寺の奥に眠っていると推測する。どんなに刀の経歴が正しくとも、刀の心鉄が表に出ていたり、刀剣の体(てい)を成していない物は刀と言えず、ただの錆鉄だ。でも寺ではこれからも永く寺宝として未来に伝承されていくだろう。

以前にお話しした事で、私の認識の誤りを説明しなければなりません。ある時、上智大学名誉教授(1993年の文章)森岡健二氏の書かれた文章を読み、私は考え込んでしまった。この表現が良いのか悪いのかということ。それは私がここで度々使っている言葉で「日本刀」という表現だ。

森岡教授のお話しは日本語の語彙を省略して表現してしまう事。例えば日本人には解るが表現としておかしいという文章例「私はうなぎ。山田君はトンカツ」。これで食堂の人への注文は理解出来るが、場面が変わったらこれは文としては十分におかしい。私(人間)はうなぎにはなれないし、山田君も多少太っていたとしてもトンカツには決して成りえない。

私の話に戻すと、私が書いた「日本刀」とは、正確には「日本で作られた刀剣」の意味で、これからも「日本刀」と書くかもしれないが、「日本で作られた刀剣」の意味で御理解いただきたい。歴史的に古刀、新刀の時代には日本で作られた刀は違(たが)わず、日本人が日本の材料(和鋼)を使って作った刀剣であり、刀と言えば100%日本製であるから、「日本刀」と言わなくても「刀剣」と書けば、それで良いと思う。別の考え方をすれば「日本刀」と書いた方が解りやすいし、「刀剣」では誤解を招くかもしれない。でも日本の和鋼をこよなく愛する私としてはここにこだわりたい。

古代から現在に至る日本人の刀剣に対する思いや、考え方を考察すると、日本の刀剣は神話以来、神から授けられた砂鉄(思い込みが多々あると思われるが)から、たたらにより精錬された和鋼(玉鋼:タマハガネ)のみが、日本の刀剣になるのだという強い信仰のようなものが作者(刀工)にも、使用者(武士や国民)にもあった様に思われる。私も同感だが日本人は何事に付けても思い込みが強い様に思えてならない。たかが鉄の刀の話なのに。

思い込みと言えば、日本には鎌倉時代初期に生きた有名人で、刀剣界に多くの影響を残して行った名高い方を次回紹介します。

その人の名は後鳥羽上皇です(つづく)。


五ヶ伝から離れて、ちょっと寄り道(刀剣の弱点)

主に古刀を中心に(新刀にも言えることだか)室町時代のある時期から、名のある優れた刀剣(名物)が公家、武士の間での進物として、重要な品になっていったと言われている。刀として武器の良し悪しだけはでなく、美術品的な扱いをうける様になると、公家、武家はじめ徳川御三家も名刀と言われる刀を集めた。理由を考えると、戦国時代、隣国との戦いで勝てば、相手の土地、財産などを恩賞として味方の家臣に分配できたが、天下統一してのち各地の小さな反乱や部分的ないくさに、土地や多額な金、銀を与える余裕が無くなる。鎌倉幕府の内紛の原因や、秀吉の朝鮮出兵も家臣に与える土地を求めて行った事が推測される。古来、刀剣自体は三種の神器の1つに数えられ(他に鏡と玉)、神格化した物のひとつとして崇められていたし、それを利用したと思われる。現代でも言われる言葉に「この刀は、わが家の家宝で○○様(殿)からいただいたもの。」と言う話しは多く聞かれる。刀の金銭的価値ではなく、自分の御主人(殿様)からいただいたことに大きな意味があって、それは確かに家宝である。

以前、刀は折れず、曲がらずよく切れて・・・・・と書いたが、これを、すこしおかしいと思われた方々も居たのではないかと。古来、日本の戦の中での刀の武器としての位置を考えてみたい。鉄砲が伝来し使われる様になるまでは、弓や槍が戦闘の主な武器で弓対刀では、弓が勝つだろう。接近戦で刀対槍でも槍の方が強い。組み合いになって初めて短刀、よろい通じ、脇差しを使い、相手の首を切ったであろう。そうです。刀(長・短は別として)は、人の首を切る為の武器だったと考える事が正しいのです。私も自分が兜を着て戦ったなら、刀では相手をたたき倒すか突くか、首を切るのに使うだろう。私が槍を持っていたら、刀より槍で戦うだろう。私の槍が刀の相手に負ける気はしないからだ。

刀が折れることについては、江戸時代、寛永11年(1634年)11月、伊賀上野城下で起きた仇討事件。荒木又右衛門と河合又五郎の事件で荒木側は4名、河合側は11名でした。河合方の桜井半兵衛は槍の使い手。荒木の作戦は、まず桜井の槍を封じる事に尽力し、槍を使わせず刀だけの戦いに持ち込んだことが、少人数でも勝てた原因だと言われている。
それでも荒木は相手の1人の木剣で刀をたたき折られている。刀の側面を強打すれば、曲がるし折れる。これが刀剣の1つの弱点です。

武器としての刀が好きな私ですが、刀剣の武器としての弱点を故意に隠すことはしない。刀の弱点を認めたとしても、それに余る程の魅力が刀剣にはあるからです。

ちょっと不思議な水の話

ためになる話

ちょっと不思議な水の話(1)

メキシコ北部の町トラコテに体に良い水がわき出ている。アレルギー、糖尿病、高血圧、ガン、エイズ、ウイルス感染、に効果がある水で、地元では奇跡の水と呼ばれていて、実際にある病院では患者に与えられ実績を上げている。水に含まれる物質は活性水素(電解還元水)だと言われ、濃度は1ppb/mlです。

ちょっと不思議な水の話(2)

トラコテの水はどうして出来るのか。発生する条件は火山活動(高温高圧)による。玄武岩に多く含まれるミネラルと水素などが水にとりこまれることにより、電解還元水が出来るとのこと。体内で発生した活性酸素に水素が取り付き、トラコテの水は弱った細胞を強くするから、体に良いのではと言われている。私も、体験したいものだ。

ちょっと不思議な水の話(3)

2度電解還元水のお話しをしましたが、日本にはないのかトラコテの水は?

それがあったんです。3年ぐらい前の話ですが、九州、日田の天領にそれに近い水が湧いているらしい。現在では、関東でも名が広まって利用している人もいるとか。水の名前は、日田天領水。近畿日本ツ-リストグル-プ(株)が扱っているらしい。別の水の話だが、そもそも山の湧き水全体に言えることだが、現地で飲んでみて、冷たさと、口当たりがいいことに異論はないと思う。水にはクラスタ-という考え方があり、クラスタ-が小さいと体によく吸収されると考える学者がいるようだ。湧き水はクラスタ-が小さいと言われている。人の体と水の関係、不思議で解らないことが多いですね。

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