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カテゴリー: ゴビーズライフ

(3)いにしえの鉄の故郷

ちょっと旅

昔から頭の隅にこびり付いて離れないことがある。山陰地方の鉄の事だ。以前、国道9号線を通って九州を訪れたことがあったが、今回、鉄の故郷と私が思い込んでいる島根県、の山間部をたずねた。山陰道の安来ICを降り県道45号を南下し、国道432号線に入り、仁多郡仁多町へ向かった。国境の久比須峠を越えるとそこは亀嵩。松本清張の小説で有名だ。道が村中に近づくと斐伊川の支流にあたる。この川の支流でも、砂鉄を取った跡があったはずだ。綺麗な黄色に色付いたカエデの小山が黒い砂鉄を抱いて、今も眠っているかと思うと、明日にでもカエデが赤く色付くのではないかと期待してしまう。私にとっては宝の山に思える。道を吉田村へとった。ここ吉田村は昭和にたたら製鉄を復活した村だ。ここに来て初めて知ったことが2つある。ひとつは、砂鉄には黒と赤がある事。もうひとつは、たたら製鉄にも水蒸気爆発がおこるという事。勿論、今は爆発に対する方策は十分に取られそのようなことはないと聞いている。

歴史上では、石器、青銅器の時代が過ぎ鉄器時代となり、ここ山陰山陽の山中が時代の先端を行くハイテクタウンとなった。そして鉄は今に至るまで産業の中核にあると私は確信する。鉄の偉大さは、変幻自在さにあると私は思う。時に軟らかく、又時に硬く、延性にも富み、他の元素(金属)とも混じり、性質を変える。それでいて、土中、水中では不安定となり、さび(酸化鉄)となって、ついには消えてしまう。また鉄自体が部分電池を作ってしまい、自ら微細な穴を開けてしまう。いわゆるピンホ-ル。なぜか、鉄と人間を比べてしまいおかしい。自虐的なところが、そっくりに思えてならない。

この山陰のいくつかの村にはたたら製鉄に関する多くの資料や、展示品があり、興味のある私にとっては、ここはまさにワンダ-ランドだ。毎日毎日通いつめて、現(うつつ)をぬかしたいくらいだ。春や秋だけでなく、厳しいだろう冬の美しい村々や道や、たたらを訪ねたい。

帰路、安来市の博物館に立ち寄った。残念なことがある。以前ここには日本刀の大変興味深い研究が発表されていた(大学の高名な先生によって)。その内容は刀を切断し、鉄の中をのぞくもので、これ程の研究発表は日本にここだけだと思ったからである。蒜山高原のペンション、ピ-タ-パンにお世話になり、翌日、自分の中の寂しさと憤りをおさえこみ、山陰から瀬戸内海にぬけた。今でも物館のことを思うと悔しさで胸がつまってくる。今回の旅の大きな喜びの後に、やはり寂しさも私には付いて来た。

(2)観音寺城跡から安土へ

ちょっと旅

近江平野にそびえ立つ安土山(163m)を知る人は多い。だがその東南東2.5kmに戦国大名、佐々木道誉の築きし城、観音寺城(跡)を知る人は少ないのでは・・・・。

現在尋ねても、ここが名城であったことを強く確信する。観音寺山は標高433mの緑深い山で北東から南西に峰をなしている。今この山は霊場観音正寺として名高く、老若男女の参拝でにぎわう。観音正寺に至る山道は大石で築かれ、城跡への道となる。険しくそして、下山時には膝が笑う程のきびしさである観音正寺より北東300mの所に本丸跡がある。石組、石垣はここを中心に残っているだけで、他は竹林を深く入った、からめ手門跡にある郭に少し残っているのがみられるだけだ。

この城の悲劇は安土城にあると私は思っている。この城の鎧(石垣)は身ぐるみ、はがされ安土城に持っていかれたことである。以後この城の名も歴史から消えていったのではないだろうか。御存知のように、道誉は地方大名でしたが、信長は天下人にまで登りつめた人である。そのため安土城の持つ意味も、当然、違ったものになったと言われている。そのひとつは、近江は米の大生産地で京都にも近く交通の要所。信長は今浜(長浜市)に秀吉を置き、比叡山のふもと坂本には光秀を配した。(観音寺城から今浜は見わたせない。)信長は家臣である秀吉と光秀を安土山から等距離の所に配し、常に監視していたと言われている。両者の秀いでた才能を高く評価していた反面、どこかで恐れていたのではないだろうか。地図上で測ると、安土山から今浜まで7里(28km)。坂本まで同じく7里である。偶然か?

現在でも脚光をあびている安土城(発掘調査が今も行われている。)とその奥に静かにたたずむ観音寺山との対照が歴史の中でゆらいでいるようで悲しげだ。

下山し登山口で拝借したツエを元に返し、汗をぬぐった。遠く奥比良山が琵琶湖の向こうにかすんでみえた。初秋の陽を背にうけ、彦根をめざし車を走らせた。

みどころ
野州町銅たく博物館、浮見堂(堅田)、近江八幡山城、長命寺、水郷めぐり

宿泊
休暇村近江八幡(0748-32-3138 8,000円~)
厚生年金休暇センター(0748-32-3221 9,000~12,000円)
水ケ浜ペンション(0748-32-4440 9,000円~)

(1)高天神城跡で

ちょっと旅

さて高天神城。高天神山は遠州の相良台地にあり外観よりも険しい山城である。回りに小高い丘が幾重にも連なり、高みに立てば太平洋(遠州灘)も望めそうである。

私の訪れた冬の高天神山は、照葉樹(シイ・クスノキ・ツバキなどの常緑広芽樹)のお椀を伏せたような山にみえる。ゆっくり3時間ぐらいかけ、この山を巡ればハイキングコースとして楽しめそうである。山の際まで畑が作られ、ゆるやかな山裾が16世紀の戦の激しさを想像しにくい。城跡の大手門、からめ手(裏門)にも人家がなく山の中腹に神社が祭られているだけである。私は南面の大手門址側から登りはじめた。風もなく暖かく感じる冬の午後で、順路は十分整備され、程良い高さのある林の中を、曲輪をめぐって歩いた。ずいぶん登って来たが石垣に出会わない。

高天神城略図 高天神城戦跡図
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山の勾配がきついので作らなかったのか、元来石組をしない城だったのだろう。山腹に石牢が残されている。武田軍が支配していた時に徳川方の大将がここに閉じ込められていたことは歴史に明らかだ。中腹に隠されているように池がある。城の大きさに比べ十分大きく思え、この城を守った武士達には、心強い聖域に映ったことだろう。戦いでは敵のみずみちを断つことにあらゆる手を使い攻めたことであろう。ここも歴史的には、激戦であったと伝えられている。ここより西南西方向、数キロメートルの大須賀町に、徳川方のとりでがある(横須賀城跡)。武田軍は信州街道(現国道152号線?)を南下し、遠州に攻めかけ徳川軍の要所を取ったり、取られたりしたのだろうか。

急な道をしばらく歩き、林が切れ、あたりが明るくなった。山頂(本丸)に着いたようだ。狭い平地が表れ、一部に岩盤が露出している。東北方向が深く切れ落ち、攻めるに難しい城であったことがよくわかる。訪れた人の想像を広がらせてくれる空間と私の持っている短い時間は、はや消え失せた。冬の夕暮れは早く、少しかいた汗も引いたので山を下りることにした。

高天神城 大手門址 高天神城 本丸址
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交通
名古屋IC→掛川IC(118km)。高天神城跡まで東名掛川ICより車で15分(8.5kmぐらい)

泊まるなら
御前崎町に国民宿舎おまえざき荘(0548-63-2521 8,500円~) 
相良町にペンションむぎわらぼうし(0548-52-0151 8,500円~)

みどころ
掛川城跡、横須賀城跡、諏訪原城跡(金谷町)、二俣城跡(天竜市)、相良油田石油抗(相良町)、森の石松の墓、大洞院(森町)

二俣城跡
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鉄のおはなし 日本刀について

ためになる話

鉄のおはなし(1)和鉄の武器 日本刀について

日本刀の時代的分類は大きく分けて4つある。

(1)古刀(ことう)飛鳥時代大宝(西暦701年)から安土、桃山時代(1595年)までの894年間。
(2)新刀(しんとう)慶長元年(1596年)から江戸時代後期享和3年(1803年)まで207年間。
(3)新々刀(しんしんとう)文化元年(1804年)から江戸時代終わり慶応3年(1867年)まで63年間
(4)現代刀(げんだいとう)明治(1868年)から現代(2003年)まで。

形状で分けると太刀と刀に分別出来る。太刀は主に馬上戦で便利。刀は地上戦に用いると良いと言われている。

鉄のおはなし(2)刀の五ケ伝について

日本刀における五ケ伝とは5つの名高い刀剣製造産地が全国にあったということ。以後、その流れをくむ刀工が各地で刀を作り、それぞれの特徴を残しつつ現代に至るものもあると言われている。(主に古刀について話す)

(1) 相州伝(相模、鎌倉中心)

刀剣鑑定の歌に「相州伝は重ねは薄く、幅広く、切先のびて真の棟(注1)なり」と言われ行光、正宗を中心に多くの刀工が世に出た。正宗ののたれ刃文が中国の水墨画のようにすばらしく、高い評価を得ている。棟の形も他と異なり真の棟の作刀を行った。これも特徴だ。有名刀工は国光、国広、貞宗、助綱、綱広、広正、正広など(新刀、新々刀にも綱広あり)。

(2) 美濃伝(関市中心)

「美濃物は焼刃はとがり沸(にえ)つかず鎬地(しのぎじ)(注2)、柾目、膚は白ける」と言われ濃州赤坂住兼元は三本杉刃紋で有名。別に二代兼定は刃紋が互の目乱(ごのめみだれ)、のたれ乱、直刃などあり、之定(のさだ)の名を切り名刀と言われている(もちろんニセモノも多し)。他に兼氏、兼友、兼房など。新刀、新々刀、そして現在に至るも、多くの刀工が作刀に業を伝えている。

(注1)棟(むね)の名称:刀の断面の形によって次のように付けられています。

KATANA.jpg

(注2)鎬地(しのぎじ):
Aに現れる木目の柾目のような鉄はだを言います(鉄のきたえ方によって表われると言われています)

(3) 備前伝(岡山県備前市長船町附近)

刀剣鑑定の歌に「備前もの手元三寸、反り高く、匂は深く、棟焼かぬなり」と言われる。備前は古刀時代から日本を代表する大生産地で名工を多く輩出している。奥州太郎と言われる古刀「正恒」が徳川美術館に所蔵され、今から千年程前に作られた傑作だと言われている。ここ備前が大生産地であった証は、古刀時代894年間で、全国に刀工8700人程が活躍していた内で、備前には2300人がこの時代、作刀にはげんだ。(名前だけ変えた同人の刀工も多々居たと聞くが。)

備前の刀工兼光は鉄砲切り、石切り、甲割り、で知られ伝説的刀工として有名である。 実際に石が切れたかどうかは疑わしいが、甲割りは現代の剣の達人によって実際に行なわれたことが知られている。勿論、刀は兼光ではないが。

刀は武器であり道具である。ゆえによく切れ、折れず、曲がらずを目差して作られ、性能のよい刀は美しく真に魅力的である。武器や道具であった刀が、ある時代から進物品として多く用いられる様になると、美術的価値が加わり、名刀と言われる刀が大名達の間で収集されるようになった。現在では、多くの人々が美術的価値に主眼を置き、日本刀を取り引きしているようだ。

(4)山城伝(京都を中心)

京都は刀の歴史も古く、早くから有名刀工が活躍している。その代表格は三条宗近で平安中期から作刀していたと言われている。日本刀の祖で宗近の子供に吉家あり。他に有国、近村、宗利、有成(河内で作刀した)が有名で刀紋は直刃あり。丁子刃紋あり。

時代は下って、山城には刀の名門各派が生まれる。粟田口派(京都粟田口)来派、綾小路派、長谷部派など。

今回は視点を変えて刀の外形を見比べて見たい。外形で一番の特徴は刀の反りで、誰が見てもわかりやすい。たとえば(7)山城の刀と(5)(6)備前の刀、姿の違いがはっきりわかる。(1)は備前光忠で織田信長が大変好んだ刀として有名で「名物」と言える。(2)は五ヶ伝には含まれないが日本刀の初期の伯耆(島根県、ホウキの国)の安綱で「名物」。時代的には永延年間(987年頃)で平安中期の作品だとされている。

katana_large.jpg1.備前 光忠(丁子刃紋)
2.伯耆 安綱(直刃もつれ小乱れ刃紋)
3.備前 正恒(直刃紋)
4.山城 定利(綾小路派の名物、丁子乱れ刃紋)
5.備前 長光(丁子刃紋)
6.備前 国宗(直刃丁子刃紋)
7.山城 来国光(来派の名物、直刃紋)
8.山城 来孫太郎(細直刃紋)
9.相州 無銘(のたれ乱刃紋)

(5)大和伝(奈良を中心)

「大和は国のまほろば」と言い継がれて久しい。古代より大和は日本そのものであったし「日本のいちばんよい所」という意味である。

古刀における大和の刀剣も同じ事が言えるだろうか。否、京に都が遷ってからは、大和が歴史の上で華々しく脚光を浴びる事は無くなった。京と奈良は地理的に距離が近い為に刀剣の区別でも「山城、大和」と一つに言われることも多く、作風も類似点がある。

大和伝→幻の刀工として天国(アマクニ、大宝年間701~704年)あり。天国は文武天皇の宝剣「小烏丸(コガラスマル)」を造ったと伝えられている。同時代の天座(アマクラ)は天国の弟子か弟だと伝えられている。時代は下って平安時代後期に千手院(センジュイン)派の重弘(仁安年間1166~1169年)、当麻派の国行(正応年間1288~1293年)、手掻(テカイ)派の包永(カネナガ、正応年間)、尻掛(シッカケ)派の初代則長(正応年間)、保昌派の貞吉(文保年間1317~1319年)が代表格で刀の姿は腰反り気味な所も山城物に似ていて、地鉄肌は細かく地沸(ジワキ)、刀の切先の形は小丸が特徴である。

実は豊橋市の東北部に有名な古寺(徳川時代に最も栄えたと伝えられている)があり、天国が寺宝として伝承し、以前、刀剣鑑定を受けた様だが正式な発表や、宝物とした展示がない所をみると、真偽が判明しなかったと思われる。刀剣に明るい人なら天国と聞いただけでも大事件である。私の私見だか、天国はすでに刀の形をした、錆びた鉄の板と化して寺の奥に眠っていると推測する。どんなに刀の経歴が正しくとも、刀の心鉄が表に出ていたり、刀剣の体(てい)を成していない物は刀と言えず、ただの錆鉄だ。でも寺ではこれからも永く寺宝として未来に伝承されていくだろう。

以前にお話しした事で、私の認識の誤りを説明しなければなりません。ある時、上智大学名誉教授(1993年の文章)森岡健二氏の書かれた文章を読み、私は考え込んでしまった。この表現が良いのか悪いのかということ。それは私がここで度々使っている言葉で「日本刀」という表現だ。

森岡教授のお話しは日本語の語彙を省略して表現してしまう事。例えば日本人には解るが表現としておかしいという文章例「私はうなぎ。山田君はトンカツ」。これで食堂の人への注文は理解出来るが、場面が変わったらこれは文としては十分におかしい。私(人間)はうなぎにはなれないし、山田君も多少太っていたとしてもトンカツには決して成りえない。

私の話に戻すと、私が書いた「日本刀」とは、正確には「日本で作られた刀剣」の意味で、これからも「日本刀」と書くかもしれないが、「日本で作られた刀剣」の意味で御理解いただきたい。歴史的に古刀、新刀の時代には日本で作られた刀は違(たが)わず、日本人が日本の材料(和鋼)を使って作った刀剣であり、刀と言えば100%日本製であるから、「日本刀」と言わなくても「刀剣」と書けば、それで良いと思う。別の考え方をすれば「日本刀」と書いた方が解りやすいし、「刀剣」では誤解を招くかもしれない。でも日本の和鋼をこよなく愛する私としてはここにこだわりたい。

古代から現在に至る日本人の刀剣に対する思いや、考え方を考察すると、日本の刀剣は神話以来、神から授けられた砂鉄(思い込みが多々あると思われるが)から、たたらにより精錬された和鋼(玉鋼:タマハガネ)のみが、日本の刀剣になるのだという強い信仰のようなものが作者(刀工)にも、使用者(武士や国民)にもあった様に思われる。私も同感だが日本人は何事に付けても思い込みが強い様に思えてならない。たかが鉄の刀の話なのに。

思い込みと言えば、日本には鎌倉時代初期に生きた有名人で、刀剣界に多くの影響を残して行った名高い方を次回紹介します。

その人の名は後鳥羽上皇です(つづく)。


五ヶ伝から離れて、ちょっと寄り道(刀剣の弱点)

主に古刀を中心に(新刀にも言えることだか)室町時代のある時期から、名のある優れた刀剣(名物)が公家、武士の間での進物として、重要な品になっていったと言われている。刀として武器の良し悪しだけはでなく、美術品的な扱いをうける様になると、公家、武家はじめ徳川御三家も名刀と言われる刀を集めた。理由を考えると、戦国時代、隣国との戦いで勝てば、相手の土地、財産などを恩賞として味方の家臣に分配できたが、天下統一してのち各地の小さな反乱や部分的ないくさに、土地や多額な金、銀を与える余裕が無くなる。鎌倉幕府の内紛の原因や、秀吉の朝鮮出兵も家臣に与える土地を求めて行った事が推測される。古来、刀剣自体は三種の神器の1つに数えられ(他に鏡と玉)、神格化した物のひとつとして崇められていたし、それを利用したと思われる。現代でも言われる言葉に「この刀は、わが家の家宝で○○様(殿)からいただいたもの。」と言う話しは多く聞かれる。刀の金銭的価値ではなく、自分の御主人(殿様)からいただいたことに大きな意味があって、それは確かに家宝である。

以前、刀は折れず、曲がらずよく切れて・・・・・と書いたが、これを、すこしおかしいと思われた方々も居たのではないかと。古来、日本の戦の中での刀の武器としての位置を考えてみたい。鉄砲が伝来し使われる様になるまでは、弓や槍が戦闘の主な武器で弓対刀では、弓が勝つだろう。接近戦で刀対槍でも槍の方が強い。組み合いになって初めて短刀、よろい通じ、脇差しを使い、相手の首を切ったであろう。そうです。刀(長・短は別として)は、人の首を切る為の武器だったと考える事が正しいのです。私も自分が兜を着て戦ったなら、刀では相手をたたき倒すか突くか、首を切るのに使うだろう。私が槍を持っていたら、刀より槍で戦うだろう。私の槍が刀の相手に負ける気はしないからだ。

刀が折れることについては、江戸時代、寛永11年(1634年)11月、伊賀上野城下で起きた仇討事件。荒木又右衛門と河合又五郎の事件で荒木側は4名、河合側は11名でした。河合方の桜井半兵衛は槍の使い手。荒木の作戦は、まず桜井の槍を封じる事に尽力し、槍を使わせず刀だけの戦いに持ち込んだことが、少人数でも勝てた原因だと言われている。
それでも荒木は相手の1人の木剣で刀をたたき折られている。刀の側面を強打すれば、曲がるし折れる。これが刀剣の1つの弱点です。

武器としての刀が好きな私ですが、刀剣の武器としての弱点を故意に隠すことはしない。刀の弱点を認めたとしても、それに余る程の魅力が刀剣にはあるからです。

ちょっと不思議な水の話

ためになる話

ちょっと不思議な水の話(1)

メキシコ北部の町トラコテに体に良い水がわき出ている。アレルギー、糖尿病、高血圧、ガン、エイズ、ウイルス感染、に効果がある水で、地元では奇跡の水と呼ばれていて、実際にある病院では患者に与えられ実績を上げている。水に含まれる物質は活性水素(電解還元水)だと言われ、濃度は1ppb/mlです。

ちょっと不思議な水の話(2)

トラコテの水はどうして出来るのか。発生する条件は火山活動(高温高圧)による。玄武岩に多く含まれるミネラルと水素などが水にとりこまれることにより、電解還元水が出来るとのこと。体内で発生した活性酸素に水素が取り付き、トラコテの水は弱った細胞を強くするから、体に良いのではと言われている。私も、体験したいものだ。

ちょっと不思議な水の話(3)

2度電解還元水のお話しをしましたが、日本にはないのかトラコテの水は?

それがあったんです。3年ぐらい前の話ですが、九州、日田の天領にそれに近い水が湧いているらしい。現在では、関東でも名が広まって利用している人もいるとか。水の名前は、日田天領水。近畿日本ツ-リストグル-プ(株)が扱っているらしい。別の水の話だが、そもそも山の湧き水全体に言えることだが、現地で飲んでみて、冷たさと、口当たりがいいことに異論はないと思う。水にはクラスタ-という考え方があり、クラスタ-が小さいと体によく吸収されると考える学者がいるようだ。湧き水はクラスタ-が小さいと言われている。人の体と水の関係、不思議で解らないことが多いですね。

ちょっとためになるかも?

ためになる話

地元の小学校の六年生にクラブ活動(竹とんぼクラブ)でお話ししたこと。
「リンカーンは、アメリカンコーヒーを3杯のむと憂鬱が直る」と言った。

解説。

リンは木 木、カーン→缶、は→ワ。それで  UTU1.gif
アメリカン→米国→※、コーヒーでコ→コ、ヒーでヒ。
それで
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3杯→彡。それで  UTU3.gif
鬱の完成  UTU4.gif

ゲーテにならって

徒然なるままに(随想)

“ehr Licht! “ 「もっと光を!!」

ドイツの文豪ゲ-テ(1749-1832)は文学者として天才であるばかりでなく、自然科学者として動植物、鉱物を研究し、色彩論をあらわしてニュ-トン物理学と対決した。またワイマ-ル公国の宰相を長年務め,政治家としても第一流の所謂マルチ人間であった。

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彼は、近代科学が自然を物として分析し切り刻み、そこから強引に法則なるものを引き出そうとするやり方には、我慢ならなかった。

彼にとって自然は豊かな生命体であり、そこに働く大いなる生命の力、つまり愛の力を彼は生涯にわ> たって求め続けたのである。それが彼の文学となり、幾人もの女性との愛の体験となり、70才を超えて17才の少女ウルリ-ケに対する熱烈な恋の原動力ともなった。彼はこの恋をかの「マリエンバ-トの悲歌」という頌に昇華している。

最近の科学技術の進歩はめざましい。

IT時代をむかえ、私のような文系の人間でもパソコンなしでは過ごすことが出来ない。しかし進歩の方向はゲ-テの最も反対した人間無視に進んでいるのではないだろうか。人々は一日の大半をパソコンあるいは 携帯電話といった無機物を通して他人との対話に費やしているがかえってそれらに使われているかのように見えるのだが。

さて私自身は散歩のわき道として、オ-ディオアンプ作りと音楽の趣味を持っている。それも真空管アンプである。私の真空管とのつきあいは中学一年の時に始まり、ドイツ語とのつきあいよりも古い。終戦直後の当時、部品も何もない時代、短波放送の受信が解禁になり、それを聴きたいがコイルがなく自分で巻くしかない、またスピ-カ-も壊れたものを手に入れ、ボイスコイルを巻き直し、コ-ンは襖紙のとりの子を使って張り替えるという時代であった。

本学初代学長の錦織清治先生は「実学」を教育の柱として立て、ペンチとハンダごてを使い実際に何でも出来る技術者の育成を めざされたことは、古い卒業生なら記憶にしみ込んでいることであろうが、まさにペンチとハンダごてで何もかもやってしまわねばならかった。これがさらにSPレコ-ドの皿まわしとなり、音楽への開眼となった。まだ今でも暇を見つけてはハンダごてを持ち続けている。管球アンプの歪みは多く、性能は最新のアンプの足もとにもおよばないが、それの出す音は、現実をリアルに冷酷にただ再生するのではなく、心暖まる音楽のこころを伝えてくれるように私には思える。

さらにもう一つのわき道、いやこれは私の本道であろうが、京都の浄土真宗の末寺 の住職であり、休日には經を読む生活である。これから老後に向っての私自身の課題は語学文学の世界と科学技術、これは私にはアンプ作りであるが、そして宗教をいかに総合して行くかである。

最後にゲ-テの格言詩を一つ紹介したい。

学問と芸術をもつ者は   Wer Wissenschaft und Kunst besitzt,

  宗教をもつ,            Der hat auch Religion;

前の二つを持たざる者は Wer jene beiden nicht besitzt,

  宗教をもて。            Der habe Religion.

彼の臨終での最後の言葉は “ehr Licht! “「もっと光を!」であった。

21世紀に「もっと光を!」である。

へんな石見つけたよ!

ちょっとじまん話

<ことの始まり>
●私が高校生であった頃、かれこれ35年も昔、札幌市手稲山には金山があり、古くから金銀の採掘が行われていた。ここからはTe(テルル)という金属元素を主成分とする手稲石Cu[TeO3]・2H2Oなどが発見されて鉱物マニアの間で有名であった。子供ながら一度は言ってみたいと思っていたところです。

●私の友人で鉱物マニアのT君は、北海道を新婚旅行し札幌に立ち寄った。彼も手稲金山に行きたいとタクシーを捕まえ、運転手に尋ねたところ、熊が出るので止めたほうがよいと言われ断念した。これで手稲の熊恐怖がインプットされてしまった。20年位前のこと。

●時間は進んで6年位前のこと、仕事で札幌の豊平製鋼(株)を」訪問することとなった。(株)大同機械製作所の製品(橋梁用の門型孔明け装置)の販売支援で営業担当に同行した。札幌駅から函館本線に乗って気が付いた。手稲金山は目の当たり!、必ず受注して、製品納入時にこっそり手稲金山へ行こう!

●1998年夏、何度目かの豊平製鋼の訪問。帰途、営業担当のS氏と4駅先の星置駅で下車、徒歩で金山跡へ向かう。ちょっと金山跡を下調べ。金山XXという地名や標識が目立つ。コンクリートの選鉱所跡と見られる廃墟が見える。三菱マテリアルの事務所(小屋)を発見、古い鉱山地図をもらう。心配な熊は出ないらしい。

●1999年3月、受注成功。同7月、操業立会いに出張。

<立会い業務>
受注製品である「橋梁用の門型孔明け装置」の設置には3週間程度を要する。私の担当は客先の橋梁用CADが出力したワーク形状データをNCプログラムに変換するシステムの確認と、孔明け機側の制御システムとのドッキングテスト・操業指導です。

引渡しの1週間前からの出張で、土日を挟む(ように計画)。チャンス到来。しかし、業務の進捗によっては休日を休めないことが多い。くれぐれもミスは禁物である。なお、現地の人に聞けば熊はやはり出ないらしい。これが肝心。


<金山探索>
そもそも金山で目で見える金を発見することは極めて稀です。採算性のある金鉱石には肉眼で見えるような大粒の金を含むことが稀なためです。ゆえに金以外の希少な鉱物の採集が目的であることを知っておいてほしい。

●探索1日目。幸か不幸か納入機のスピンドルモータにトラブルが発生してしまった。北海道内のサービスセンタと連絡をとる。モータ入手に1日を要し、その間仕事ができない。

よし!金山探索開始。

ソフトエンジニアの久保田氏と金山に向かう。昨年貰った古い地図に該当する登山道を探した。星置川沿いに山道を辿るが行き止まり、行きつ戻りつ、要領を得ない。暗くなるし、雨も降り出す。帰り際、土地の人に乙女の滝への道を聞く。分かった。今日は戻るが次に期待する。

●探索2日目(日曜日)。仕事は順調に進捗、いよいよ決行。

まず札幌駅でレンタカーを借り、久保田氏に運転をお願いして出発!。途中、靴とハンマー、リュックを購入。時間は充分ある、金山の探索はたいへん困難で、疲労困憊が予想されるので後回しにして、まずフゴッペへ灰長石Ca[Al2Si2O8]の探索に向かうことにした。


▲ フゴッペへ(地図)

フゴッペは小樽市と余市郡の境辺りの海岸へ流込むフゴッペ川を4km程度遡上した所である。事前に灰長石産地の情報を仕入れてこなかったので、とりあえず道の行き止まり付近の沢で探索してみた。近くにフゴッベ川温泉という看板の宿らしきが一軒ある。客は居るのか居ないのか?

ここの灰長石は既に私のコレクションにあるので、産出状況は推測できる。火山の溶岩溜りで成長した結晶が、噴火で溶岩と共にして地表にでて来たものであろう。溶岩の中に四角いちょうどマージャンパイのような結晶が見つかる筈だ。

川幅5m位の大小の溶岩がごろごろしている川原で、30分くらい粘ってみた。小さな結晶は多いが、コレクションに値するものは少ない。やっとのことで大きな結晶が1つ含まれる手ごろな大きさの溶岩をみつけることができた。頂きまーす。

hugoppe_kawa1.jpg kaityouseki.jpg
フゴッペ川 灰長石(玄武岩中の四角の結晶)

▲手稲金山へ(地図

お昼過ぎに到着した。車を置いて、巨大な採石場の下を流れる星置川沿いの山道を遡上していく。この道は手稲山スキー場の頂上に達するらしく、また、ハイキングコースにもなっているようだ。廃業して25年は経過しているので、鉱山の面影は殆ど見られない。もう1時間歩きつづけて来たが一人のハイカーとすれ違っただけである。彼は熊避けの鈴を鳴らしていた。熊がでるのか!?。更に1時間登る。途中に2箇所だけ鉱山のズリ山(坑内から掘り出した捨石)があったが、硫化鉄鉱が見つかるだけで、面白い石はない。いよいよ道は細まり森が深く暗くなる。どこへ行きつくのか分からない。やばそー!退却開始。

広い道に戻ったところで、手稲山頂上に続くと思われる林道にスィッチ。20分くらい登った所に、山に分け入る分岐道(踏み跡)が見つかる。路面の様子で鉱山に続くような気配を感じ、この道に分け入る。沢を渡って沢沿いに登るとズリの散らばる広場にでた。おー!坑道が見える。

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<坑道発見>
坑口は3つある。ひとつは坑内水かコンコンと湧き出している。残りのふたつは隣り合わせになっている。どれも、手堀りされたのであろうか、天井や壁の補強はなく、今にも崩れそうに荒れている。 危険極まりない。くわばらくわばら!ちょっと覗くだけにして近寄らぬことにしよう。

取りあえず、あたりの石を点検開始。

<へんな石見つけた:スカイブルーの球体>

ここは金属鉱山である筈なのに、銅、鉛、亜鉛などの金属を多く含んでいる石は殆んど見当たらない。時々、方解石Ca[CO3]、重晶石Ba[SO4]、水晶[SiO2]が見つかる。コレクションに相応しいサンプルは少ない。偶然土に埋もれた石英脈の塊がでてきた。ハンマーで一撃を与えると、真っ白い石英脈の破面に青い染みが見えた。ルーペで観察すると、石英の空隙に径0.2mm以下のすごく綺麗なスカイブルーの球体(微細結晶の集合体)となっている。この場所でこのような形態の鉱物で出そうなのは、Cuを含んだ鉱物である手稲石、孔雀石、珪孔雀石などが思い浮かぶ。が、私のつたない知識を総動員しても該当するものがない。ま、もらって帰ろう。退散退散!

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重晶石(透明四角) 重晶石(不透明四角)と水晶 探索風景
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richelsdorfite。球体の最大径は0.15mm、石英の空隙に微細な水晶と供出している

<いったい何だろう?>
スカイブルーの球体が気になる。2000年1月に名古屋鉱物同好会の新年会が瑞穂区のお寺で開催された上野の国立科学博物館地学研究部の鉱物学専攻の先生の講演が恒例となっている。
機に乗じサンプルを提供して同定をお願いした。その後「該当なし」のメールを受信。

これは本当にへんな石かもしれない!(もしや新鉱物!)


<結末>
てな事を書いていたら、国立科学博物館の松原博士からE-Mailが届いた。 同定をお願いして既に1年8ヶ月、採集してから2年2ヶ月もたっている。調べてくれているか心配だったが、待ちに待った結論でした。鉱物の英名はrichelsdorfiteとのこと。まだ、和名はないのか、すこし古い本だが日本産鉱物種 (THE MINERAL SPECIES OF JAPAN 1992 松原 聡著 )を調べてみたが記載がない。ひょっとすると日本での新発見なのかと期待が高まる。

<E-Mail>

To: m-nagura@xxxxxx.ne.jp (nagura)
From: Satoshi Matsubara <matubara@xxxxx.go.jp>
Subject: 手稲産鉱物のこと
Date: Tue, 25 Sep 2001 16:52:01 +0900
Cc:

名倉 様

手稲鉱山の青色玉状鉱物の正体がわかりました。かなり珍しい鉱物でした。最初、テルル酸塩ではないかと、X線粉末回折値を検討していたので,該当する鉱物がなかったのです。化学分析をしたところ、 richelsdorfite, Ca2Cu5SbCl(OH)6(AsO4)4・6H2O, であることがわかり、 X線粉末回折値を見直したところ、ほぼこの鉱物に該当しました。長い間おまたせしてすみませんでした。なお、この鉱物についてはいずれどこかで発表させてもらいます。

松原 聰

<むすび>
子供のころから行ってみたいと思いつづけて35年。偶然にも会社の出張で、したがって交通費は只同然で、行くことができました。しかも、考えても見ない新発見(結論は尚早だが)という収穫を得ることができた。また、学術研究のささやかなお手伝いができたことは、とてもラッキーで生涯の1ページとして記憶に残ることでしょう。

思いつづけることが大切ですよ!。ご同輩。


<謝辞>
次の方々には大変お世話になりましたので、記載して謝意を表します。

○国立科学博物館地学第二研究室 松原 聰博士: 鉱物の同定に対して。
○(株)海津電研工業社 久保田 賢一氏: 現地同行に対して(熊が怖くて一人では行けない)。
○大同工業大学 愛知 久助教授:写真撮影に対して

毛利衛さんからの贈りもの

徒然なるままに(随想)

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4月21日、大同工業大学創立60周年記念特別講演会が宇宙飛行士毛利衛さんを迎えて名古屋市公会堂で行われた。宇宙へ飛び立ったパイオニアからの直接の話「宇宙からの贈りものÿユニバソロジの世界観」は、期待に違わず聞く者に感動と新たな夢を与えるものであった。

「当日午前、本学を訪れる毛利さんに実験室を見せてあげてほしい。比較的小規模の大学で、予算不足と戦いながら頑張っているありのままをÿ」という澤岡学長からのメールが入ったのはその数日前でした。大同キャンパスから滝春新キャンパスへの移転の間もない頃、研究室の学生を総動員して、大慌てで実験装置の形だけを組み上げて当日を迎えた。

毛利さんは1992年の第1回目の宇宙飛行における科学実験の中で、銀の微粒子の生成実験を行っている。それは私の現在の研究とも深く関わっているので少し詳しく説明させていただく。この実験装置は直径8cmの“ガラス電球”にアルゴン、キセノンの不活性ガスを詰め、フィラメントから銀を加熱蒸発してできる煙微粒子をビデオ撮影するという仕掛けである。地上ではガスの対流によって煙が上方に立ち昇る中で結晶成長は進むが、宇宙では重量が無く対流を発生しないので、微粒子生成のメカニズムが異なることに着目し、新たな材料開発を目指して名古屋大学理学部和田伸彦先生の提案された実験である。後に、対流のない煙の拡散だけが見事に撮し出された写真を和田先生から送られた論文の中で見ることができた。

もう10年程も前になるとは言え、地上で何回も模擬実験をこなして宇宙の本番を済ませた毛利さん、自然対流を“消す”ために強制ガス流中で材料を蒸発してナノ粒子を作製するという私の実験装置を前にして、「生成のメカニズムは?」と、いきなり核心に迫る質問が出たり、また、実験結果のグラフが示す微妙な差異に率直な関心を寄せていただいた。極めて短い時間の会話を通して私に強く残った印象は、“熱意あふれる真摯な科学者”の毛利衛さんであった。

特別講演会と毛利さんの研究室訪問を通して、この7月に開館した「日本科学未来館」館長として氏の意気込みを強く感ずるとともに、それはまた私にとって、次代を担う若者が新たな夢を抱くために、親として、教師として何をなすべきかを考える好機となった。

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