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カテゴリー: ちょっと旅

(3)いにしえの鉄の故郷

ちょっと旅

昔から頭の隅にこびり付いて離れないことがある。山陰地方の鉄の事だ。以前、国道9号線を通って九州を訪れたことがあったが、今回、鉄の故郷と私が思い込んでいる島根県、の山間部をたずねた。山陰道の安来ICを降り県道45号を南下し、国道432号線に入り、仁多郡仁多町へ向かった。国境の久比須峠を越えるとそこは亀嵩。松本清張の小説で有名だ。道が村中に近づくと斐伊川の支流にあたる。この川の支流でも、砂鉄を取った跡があったはずだ。綺麗な黄色に色付いたカエデの小山が黒い砂鉄を抱いて、今も眠っているかと思うと、明日にでもカエデが赤く色付くのではないかと期待してしまう。私にとっては宝の山に思える。道を吉田村へとった。ここ吉田村は昭和にたたら製鉄を復活した村だ。ここに来て初めて知ったことが2つある。ひとつは、砂鉄には黒と赤がある事。もうひとつは、たたら製鉄にも水蒸気爆発がおこるという事。勿論、今は爆発に対する方策は十分に取られそのようなことはないと聞いている。

歴史上では、石器、青銅器の時代が過ぎ鉄器時代となり、ここ山陰山陽の山中が時代の先端を行くハイテクタウンとなった。そして鉄は今に至るまで産業の中核にあると私は確信する。鉄の偉大さは、変幻自在さにあると私は思う。時に軟らかく、又時に硬く、延性にも富み、他の元素(金属)とも混じり、性質を変える。それでいて、土中、水中では不安定となり、さび(酸化鉄)となって、ついには消えてしまう。また鉄自体が部分電池を作ってしまい、自ら微細な穴を開けてしまう。いわゆるピンホ-ル。なぜか、鉄と人間を比べてしまいおかしい。自虐的なところが、そっくりに思えてならない。

この山陰のいくつかの村にはたたら製鉄に関する多くの資料や、展示品があり、興味のある私にとっては、ここはまさにワンダ-ランドだ。毎日毎日通いつめて、現(うつつ)をぬかしたいくらいだ。春や秋だけでなく、厳しいだろう冬の美しい村々や道や、たたらを訪ねたい。

帰路、安来市の博物館に立ち寄った。残念なことがある。以前ここには日本刀の大変興味深い研究が発表されていた(大学の高名な先生によって)。その内容は刀を切断し、鉄の中をのぞくもので、これ程の研究発表は日本にここだけだと思ったからである。蒜山高原のペンション、ピ-タ-パンにお世話になり、翌日、自分の中の寂しさと憤りをおさえこみ、山陰から瀬戸内海にぬけた。今でも物館のことを思うと悔しさで胸がつまってくる。今回の旅の大きな喜びの後に、やはり寂しさも私には付いて来た。

(2)観音寺城跡から安土へ

ちょっと旅

近江平野にそびえ立つ安土山(163m)を知る人は多い。だがその東南東2.5kmに戦国大名、佐々木道誉の築きし城、観音寺城(跡)を知る人は少ないのでは・・・・。

現在尋ねても、ここが名城であったことを強く確信する。観音寺山は標高433mの緑深い山で北東から南西に峰をなしている。今この山は霊場観音正寺として名高く、老若男女の参拝でにぎわう。観音正寺に至る山道は大石で築かれ、城跡への道となる。険しくそして、下山時には膝が笑う程のきびしさである観音正寺より北東300mの所に本丸跡がある。石組、石垣はここを中心に残っているだけで、他は竹林を深く入った、からめ手門跡にある郭に少し残っているのがみられるだけだ。

この城の悲劇は安土城にあると私は思っている。この城の鎧(石垣)は身ぐるみ、はがされ安土城に持っていかれたことである。以後この城の名も歴史から消えていったのではないだろうか。御存知のように、道誉は地方大名でしたが、信長は天下人にまで登りつめた人である。そのため安土城の持つ意味も、当然、違ったものになったと言われている。そのひとつは、近江は米の大生産地で京都にも近く交通の要所。信長は今浜(長浜市)に秀吉を置き、比叡山のふもと坂本には光秀を配した。(観音寺城から今浜は見わたせない。)信長は家臣である秀吉と光秀を安土山から等距離の所に配し、常に監視していたと言われている。両者の秀いでた才能を高く評価していた反面、どこかで恐れていたのではないだろうか。地図上で測ると、安土山から今浜まで7里(28km)。坂本まで同じく7里である。偶然か?

現在でも脚光をあびている安土城(発掘調査が今も行われている。)とその奥に静かにたたずむ観音寺山との対照が歴史の中でゆらいでいるようで悲しげだ。

下山し登山口で拝借したツエを元に返し、汗をぬぐった。遠く奥比良山が琵琶湖の向こうにかすんでみえた。初秋の陽を背にうけ、彦根をめざし車を走らせた。

みどころ
野州町銅たく博物館、浮見堂(堅田)、近江八幡山城、長命寺、水郷めぐり

宿泊
休暇村近江八幡(0748-32-3138 8,000円~)
厚生年金休暇センター(0748-32-3221 9,000~12,000円)
水ケ浜ペンション(0748-32-4440 9,000円~)

(1)高天神城跡で

ちょっと旅

さて高天神城。高天神山は遠州の相良台地にあり外観よりも険しい山城である。回りに小高い丘が幾重にも連なり、高みに立てば太平洋(遠州灘)も望めそうである。

私の訪れた冬の高天神山は、照葉樹(シイ・クスノキ・ツバキなどの常緑広芽樹)のお椀を伏せたような山にみえる。ゆっくり3時間ぐらいかけ、この山を巡ればハイキングコースとして楽しめそうである。山の際まで畑が作られ、ゆるやかな山裾が16世紀の戦の激しさを想像しにくい。城跡の大手門、からめ手(裏門)にも人家がなく山の中腹に神社が祭られているだけである。私は南面の大手門址側から登りはじめた。風もなく暖かく感じる冬の午後で、順路は十分整備され、程良い高さのある林の中を、曲輪をめぐって歩いた。ずいぶん登って来たが石垣に出会わない。

高天神城略図 高天神城戦跡図
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山の勾配がきついので作らなかったのか、元来石組をしない城だったのだろう。山腹に石牢が残されている。武田軍が支配していた時に徳川方の大将がここに閉じ込められていたことは歴史に明らかだ。中腹に隠されているように池がある。城の大きさに比べ十分大きく思え、この城を守った武士達には、心強い聖域に映ったことだろう。戦いでは敵のみずみちを断つことにあらゆる手を使い攻めたことであろう。ここも歴史的には、激戦であったと伝えられている。ここより西南西方向、数キロメートルの大須賀町に、徳川方のとりでがある(横須賀城跡)。武田軍は信州街道(現国道152号線?)を南下し、遠州に攻めかけ徳川軍の要所を取ったり、取られたりしたのだろうか。

急な道をしばらく歩き、林が切れ、あたりが明るくなった。山頂(本丸)に着いたようだ。狭い平地が表れ、一部に岩盤が露出している。東北方向が深く切れ落ち、攻めるに難しい城であったことがよくわかる。訪れた人の想像を広がらせてくれる空間と私の持っている短い時間は、はや消え失せた。冬の夕暮れは早く、少しかいた汗も引いたので山を下りることにした。

高天神城 大手門址 高天神城 本丸址
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交通
名古屋IC→掛川IC(118km)。高天神城跡まで東名掛川ICより車で15分(8.5kmぐらい)

泊まるなら
御前崎町に国民宿舎おまえざき荘(0548-63-2521 8,500円~) 
相良町にペンションむぎわらぼうし(0548-52-0151 8,500円~)

みどころ
掛川城跡、横須賀城跡、諏訪原城跡(金谷町)、二俣城跡(天竜市)、相良油田石油抗(相良町)、森の石松の墓、大洞院(森町)

二俣城跡
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