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投稿者: daidouser10

(6)もう1つの五陵郭

ちょっと旅

函館の五陵郭は日本唯一の西洋城閣だと言われているが、私は数年前に、日本にももう1つの五陵郭があることを知った。

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龍岡城(五稜郭)跡 石碑:史跡龍岡城址

あれから何ヶ月たったのだろうか。春の雨に濡れ、長野県佐久市の南隣り臼田町の龍岡城を訪れた。ここ臼田町は岡崎市、豊田市の松平氏と深い関係のある土地です。徳川家康の先祖4代前の松平親忠の二男乗元が大給(だいきゅう)松平氏を興し、その五代目が奥殿藩主となった。その奥殿氏が、大阪の陣の戦功によって信州佐久に1万2千石の領地を与えられた。

その奥殿藩の佐久のお城が龍岡城で、その城が何と西洋式五陵郭なのです。規模は函館には及ばないものの、立派な星形五陵郭です。本丸と西北の石垣の一部が、中学校の運動場と校舎に利用され、郭をとり囲む桜の樹が五陵郭の堀の水に映えて、美しいであろうことを想像させてくれる。堀の外に新しい茶店風の建物が作られ、地元の人の親切な御接待を受け、旅の出会いの楽しさを味わった。静かな農村に囲まれ、落ち付いた味わいのこの五陵郭も興味深い名所と言えよう。

(5)道南から青森へ

ちょっと旅

数年前、苫小牧にフェリ-で上陸し道南、青森への旅に出た。北海道は光あふれる新緑の季節で、道路脇に咲く大型の黄色いタンポポがとても美しい。支笏湖への国道276号線は特にタンポポが眩しく、広くはない道だが高速で走れる快適な道路だ。

支笏湖では樽前(たるまえ)山を船上から望み、春の湖水の深い藍色(水色)を楽しんだ。次に白老を尋ねた。ここは旧仙台藩の陣屋跡が残されていて、蝦夷地(北海道)の開拓、治安を行っていた。と断言出来るのは仙台側の言い分で、蝦夷の人に言わせれば「海産物、資源その他、お金になるものなら何でも略奪同然の取り引きをする為に、駐屯しているのだ」と言うであろう。どちらの立場も理解出来るが、当時北海道には多くの勢力が、分散し、徳川幕府に対抗する力が無かった。史実として、江戸時代最大の戦が1669年(寛永9年)、日高地方の蝦夷の酋長シャクシャインとの間であった。

その時松前藩は、津軽、南部、秋田各藩に応援を求め合同で反乱をおさめたと言うことが歴史書にある。ここでは徳川側の歴史の記述は戦(たたかい)ではなくちょっとした反乱であったと記してある。蝦夷の人に言わせれば、アイヌ魂を傾注した崇高ないくさであったと言い伝えられているだろう。歴史の真実は、片方だけの歴史を紐解いても決して解明されないだろうし、世界の歴史がそれを証明している。

実は私の五代前の先祖も仕事で仙台から、白老に出張していたと聞いたので、ことのほか興味を持って見学した。

白老を発ち、羊蹄山を右手に仰ぎ、長万部から国道5号線を南下し、大沼を船でめぐった。次に函館へ車を進める予定であったが、江差町の南の上ノ国町、夷王山で旧砦の発掘を行っていると知り、変更し江差へ回った。江差では追分会館と咸臨丸を見学し、上ノ国へ向かった。ここは花沢の館(やかた)で蝦夷の有名人、コシャマインと館の城主が戦った砦の跡だと言われ、山の中腹の発掘調査を上ノ国教育委員会が行っていた。私が訪ねたのは、天気の良い昼休み時であった。丁度、炭化した木材の破片や、黒く焼けた土の調査を行っていた所で、合戦で焼かれた建物の跡だった。町の若い担当者が迎えてくれて、貴重な時間を割いて説明していただき恐縮した。彼の仕事への情熱に心暖かくなり、今後の長い発掘作業の無事を願って現場を去った。2時間程を過ごし、駐車場から車を出したら北キツネが見送りに顔を出してくれた。

函館にもどり陽の高いうちにロ-プウェイで函館山へ登ったがここは夜の方がいい。

国内唯一と言われる西洋式城閣五稜郭は、江戸時代末期、外国船の渡来に備え、北海道防衛の為に、徳川幕府が造った城で安政4年(1857年)着工、元治元年(1864年)に完成した。当時の城主は小出秀実(函館奉行)で、5つのでっぱりのある星形、フランス式の近代城だ。
五稜郭の外堀に立ち、以前の自分の旅を思い出してみた。大学生の頃の旅はすべてが楽しく、何を見ても嬉しく心豊かであったが、実際は食費を節約する貧乏旅行だった。

翌日の午前青森へ。高速フェリ-に身を委ねウトウトしながら三内丸山遺跡の事を考えていた。遺跡の周囲は白いニセアカシアの花が咲き、見学者を迎えてくれる。
展示館の栗の大木の支柱の一部を見せられた時、想像を超える大きさに驚き、この青森のいにしえの森にも立派な樹が生えていたことが証明され嬉しかった。糸魚川産のヒスイが発掘されたり、北海道の黒曜石(現在でも日高山地で取れるとのこと。)の矢じり、石ナイフの出土を見ると、船を使い海洋航行していたことが十分想像出来る。すでに言われているがここへ来て縄文文化の質の高さを多々見せられ、私の定説もくつがえされた。

三内丸山を巡って感じたことは時間と言う1本の糸だけが、今と昔を結ぶ唯一のものなのかもしれないこと。私にとって過去を見つめ、今を生ることが、たったひとつの未来に通ずることなのかもしれない。

八甲田、十和田湖を巡り、旅を終えた。

(追記) 星形の五稜郭について
陰陽道で星印☆は、晴明星(せいめいせい)と呼ばれ星印にはどこにも出口がないので魔を封じ込めると言われている。(禍福吉凶も占いに頼っていたと思われる節があり)築城、設計に当たり星印に吉祥を見出しそれにあやかった様だ。晴明とは平安時代中頃の陰陽道の大家、安部晴明のことである。京都上京区西陣織会館の南に晴明神社があり、近年大変にぎわっていると聞く。

(4)備中松山城(岡山県高梁市)から高松城跡へ

ちょっと旅

あるアメリカの女性キャスタ-が、中国の万里の長城を訪れて言ったことは、「小さな石を積み重ね、偉大なものを作ったもんだ。」と。私は万里の長城を知らない。写真でみても 綺麗に整備された長城には日干しレンガ、自然石、切り石が壁に使われている様に見える。だが通路の階段には大きな切り石が使われているのを見ると、彼女の言葉を疑ってしまう。小さな石だけで作られているとは思えない。

私も岡山県備中松山城を尋ねた時に彼女と同じ事を呟きそうになってハッとした。この城の天守閣は、昭和のある時期まで、森に帰ってしまうのではないかと思われる程、荒れていた。石垣に生えた樹の根が、石垣を壊し、城の壁板は腐り、屋根瓦は、崩れかけ冬の北風にも天守閣全部が自壊を起こしそうな、そんな状態であったと聞く。有志の 基金をもとに、木造天守閣を復現し今に今に至っているが、遠目に見たその石垣も小粒に見える。

この城は高梁(たかはし)川にすそを削られ、急峻な山に築かれた山城だ。すぐそこに見える天守閣が登れどのぼれど、又石垣が現れる。この険しい山城の石垣でも人の体に比べたら大きいし、山頂近くの石組はどこから運んで積んだのか、思いあぐねてしまう。

汗をかきかき、やっとのことで大手門にたどり着いた。この城のすばらしさは、その石組であり石垣のひとつひとつの高さにあると思う。大手門の石垣もその高さと、空を切り裂くような迫力には感動する。もう1つの大きな驚きは、大手門に至ると、城主が「登城、ご苦労であった。」と我々を迎えくれることだ。口元がゆるみ笑ってしまう自分に気づく。そして全身の力がス-ッと抜けた。

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午後、高梁川に沿って国道80号線を南下し、総社の備中国分寺を訪れ、吉備津神社に参拝し、大鳥居の高松稲荷への道途中の高松城跡を目差した。吉備津神社は「鳴釜の神事」で名高いが、他に「吉備津丸」と言われる日本一の大太刀でも有名である。作者は備州長船法光(おさふねのりみつ)で出来は大変優れていると言われている。当地、愛知県でも熱田神宮は大太刀の寄進が多く、匠達の業が見られる。

さて高松城跡は虚しく田園の中にたたずんでいて、何故ここに城を築いたか理解に苦しむ。ここより北西に鬼ヶ城があるが、今回の訪問を諦め、今日の宿 牛窓へ向かった。

明日は備前、赤穂を尋ねるつもりだ。

(3)いにしえの鉄の故郷

ちょっと旅

昔から頭の隅にこびり付いて離れないことがある。山陰地方の鉄の事だ。以前、国道9号線を通って九州を訪れたことがあったが、今回、鉄の故郷と私が思い込んでいる島根県、の山間部をたずねた。山陰道の安来ICを降り県道45号を南下し、国道432号線に入り、仁多郡仁多町へ向かった。国境の久比須峠を越えるとそこは亀嵩。松本清張の小説で有名だ。道が村中に近づくと斐伊川の支流にあたる。この川の支流でも、砂鉄を取った跡があったはずだ。綺麗な黄色に色付いたカエデの小山が黒い砂鉄を抱いて、今も眠っているかと思うと、明日にでもカエデが赤く色付くのではないかと期待してしまう。私にとっては宝の山に思える。道を吉田村へとった。ここ吉田村は昭和にたたら製鉄を復活した村だ。ここに来て初めて知ったことが2つある。ひとつは、砂鉄には黒と赤がある事。もうひとつは、たたら製鉄にも水蒸気爆発がおこるという事。勿論、今は爆発に対する方策は十分に取られそのようなことはないと聞いている。

歴史上では、石器、青銅器の時代が過ぎ鉄器時代となり、ここ山陰山陽の山中が時代の先端を行くハイテクタウンとなった。そして鉄は今に至るまで産業の中核にあると私は確信する。鉄の偉大さは、変幻自在さにあると私は思う。時に軟らかく、又時に硬く、延性にも富み、他の元素(金属)とも混じり、性質を変える。それでいて、土中、水中では不安定となり、さび(酸化鉄)となって、ついには消えてしまう。また鉄自体が部分電池を作ってしまい、自ら微細な穴を開けてしまう。いわゆるピンホ-ル。なぜか、鉄と人間を比べてしまいおかしい。自虐的なところが、そっくりに思えてならない。

この山陰のいくつかの村にはたたら製鉄に関する多くの資料や、展示品があり、興味のある私にとっては、ここはまさにワンダ-ランドだ。毎日毎日通いつめて、現(うつつ)をぬかしたいくらいだ。春や秋だけでなく、厳しいだろう冬の美しい村々や道や、たたらを訪ねたい。

帰路、安来市の博物館に立ち寄った。残念なことがある。以前ここには日本刀の大変興味深い研究が発表されていた(大学の高名な先生によって)。その内容は刀を切断し、鉄の中をのぞくもので、これ程の研究発表は日本にここだけだと思ったからである。蒜山高原のペンション、ピ-タ-パンにお世話になり、翌日、自分の中の寂しさと憤りをおさえこみ、山陰から瀬戸内海にぬけた。今でも物館のことを思うと悔しさで胸がつまってくる。今回の旅の大きな喜びの後に、やはり寂しさも私には付いて来た。

(2)観音寺城跡から安土へ

ちょっと旅

近江平野にそびえ立つ安土山(163m)を知る人は多い。だがその東南東2.5kmに戦国大名、佐々木道誉の築きし城、観音寺城(跡)を知る人は少ないのでは・・・・。

現在尋ねても、ここが名城であったことを強く確信する。観音寺山は標高433mの緑深い山で北東から南西に峰をなしている。今この山は霊場観音正寺として名高く、老若男女の参拝でにぎわう。観音正寺に至る山道は大石で築かれ、城跡への道となる。険しくそして、下山時には膝が笑う程のきびしさである観音正寺より北東300mの所に本丸跡がある。石組、石垣はここを中心に残っているだけで、他は竹林を深く入った、からめ手門跡にある郭に少し残っているのがみられるだけだ。

この城の悲劇は安土城にあると私は思っている。この城の鎧(石垣)は身ぐるみ、はがされ安土城に持っていかれたことである。以後この城の名も歴史から消えていったのではないだろうか。御存知のように、道誉は地方大名でしたが、信長は天下人にまで登りつめた人である。そのため安土城の持つ意味も、当然、違ったものになったと言われている。そのひとつは、近江は米の大生産地で京都にも近く交通の要所。信長は今浜(長浜市)に秀吉を置き、比叡山のふもと坂本には光秀を配した。(観音寺城から今浜は見わたせない。)信長は家臣である秀吉と光秀を安土山から等距離の所に配し、常に監視していたと言われている。両者の秀いでた才能を高く評価していた反面、どこかで恐れていたのではないだろうか。地図上で測ると、安土山から今浜まで7里(28km)。坂本まで同じく7里である。偶然か?

現在でも脚光をあびている安土城(発掘調査が今も行われている。)とその奥に静かにたたずむ観音寺山との対照が歴史の中でゆらいでいるようで悲しげだ。

下山し登山口で拝借したツエを元に返し、汗をぬぐった。遠く奥比良山が琵琶湖の向こうにかすんでみえた。初秋の陽を背にうけ、彦根をめざし車を走らせた。

みどころ
野州町銅たく博物館、浮見堂(堅田)、近江八幡山城、長命寺、水郷めぐり

宿泊
休暇村近江八幡(0748-32-3138 8,000円~)
厚生年金休暇センター(0748-32-3221 9,000~12,000円)
水ケ浜ペンション(0748-32-4440 9,000円~)

(1)高天神城跡で

ちょっと旅

さて高天神城。高天神山は遠州の相良台地にあり外観よりも険しい山城である。回りに小高い丘が幾重にも連なり、高みに立てば太平洋(遠州灘)も望めそうである。

私の訪れた冬の高天神山は、照葉樹(シイ・クスノキ・ツバキなどの常緑広芽樹)のお椀を伏せたような山にみえる。ゆっくり3時間ぐらいかけ、この山を巡ればハイキングコースとして楽しめそうである。山の際まで畑が作られ、ゆるやかな山裾が16世紀の戦の激しさを想像しにくい。城跡の大手門、からめ手(裏門)にも人家がなく山の中腹に神社が祭られているだけである。私は南面の大手門址側から登りはじめた。風もなく暖かく感じる冬の午後で、順路は十分整備され、程良い高さのある林の中を、曲輪をめぐって歩いた。ずいぶん登って来たが石垣に出会わない。

高天神城略図 高天神城戦跡図
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山の勾配がきついので作らなかったのか、元来石組をしない城だったのだろう。山腹に石牢が残されている。武田軍が支配していた時に徳川方の大将がここに閉じ込められていたことは歴史に明らかだ。中腹に隠されているように池がある。城の大きさに比べ十分大きく思え、この城を守った武士達には、心強い聖域に映ったことだろう。戦いでは敵のみずみちを断つことにあらゆる手を使い攻めたことであろう。ここも歴史的には、激戦であったと伝えられている。ここより西南西方向、数キロメートルの大須賀町に、徳川方のとりでがある(横須賀城跡)。武田軍は信州街道(現国道152号線?)を南下し、遠州に攻めかけ徳川軍の要所を取ったり、取られたりしたのだろうか。

急な道をしばらく歩き、林が切れ、あたりが明るくなった。山頂(本丸)に着いたようだ。狭い平地が表れ、一部に岩盤が露出している。東北方向が深く切れ落ち、攻めるに難しい城であったことがよくわかる。訪れた人の想像を広がらせてくれる空間と私の持っている短い時間は、はや消え失せた。冬の夕暮れは早く、少しかいた汗も引いたので山を下りることにした。

高天神城 大手門址 高天神城 本丸址
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交通
名古屋IC→掛川IC(118km)。高天神城跡まで東名掛川ICより車で15分(8.5kmぐらい)

泊まるなら
御前崎町に国民宿舎おまえざき荘(0548-63-2521 8,500円~) 
相良町にペンションむぎわらぼうし(0548-52-0151 8,500円~)

みどころ
掛川城跡、横須賀城跡、諏訪原城跡(金谷町)、二俣城跡(天竜市)、相良油田石油抗(相良町)、森の石松の墓、大洞院(森町)

二俣城跡
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ちょっとためになるかも?

ためになる話

地元の小学校の六年生にクラブ活動(竹とんぼクラブ)でお話ししたこと。
「リンカーンは、アメリカンコーヒーを3杯のむと憂鬱が直る」と言った。

解説。

リンは木 木、カーン→缶、は→ワ。それで  UTU1.gif
アメリカン→米国→※、コーヒーでコ→コ、ヒーでヒ。
それで
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3杯→彡。それで  UTU3.gif
鬱の完成  UTU4.gif

ちょっと不思議な水の話

ためになる話

ちょっと不思議な水の話(1)

メキシコ北部の町トラコテに体に良い水がわき出ている。アレルギー、糖尿病、高血圧、ガン、エイズ、ウイルス感染、に効果がある水で、地元では奇跡の水と呼ばれていて、実際にある病院では患者に与えられ実績を上げている。水に含まれる物質は活性水素(電解還元水)だと言われ、濃度は1ppb/mlです。

ちょっと不思議な水の話(2)

トラコテの水はどうして出来るのか。発生する条件は火山活動(高温高圧)による。玄武岩に多く含まれるミネラルと水素などが水にとりこまれることにより、電解還元水が出来るとのこと。体内で発生した活性酸素に水素が取り付き、トラコテの水は弱った細胞を強くするから、体に良いのではと言われている。私も、体験したいものだ。

ちょっと不思議な水の話(3)

2度電解還元水のお話しをしましたが、日本にはないのかトラコテの水は?

それがあったんです。3年ぐらい前の話ですが、九州、日田の天領にそれに近い水が湧いているらしい。現在では、関東でも名が広まって利用している人もいるとか。水の名前は、日田天領水。近畿日本ツ-リストグル-プ(株)が扱っているらしい。別の水の話だが、そもそも山の湧き水全体に言えることだが、現地で飲んでみて、冷たさと、口当たりがいいことに異論はないと思う。水にはクラスタ-という考え方があり、クラスタ-が小さいと体によく吸収されると考える学者がいるようだ。湧き水はクラスタ-が小さいと言われている。人の体と水の関係、不思議で解らないことが多いですね。

鉄のおはなし 日本刀について

ためになる話

鉄のおはなし(1)和鉄の武器 日本刀について

日本刀の時代的分類は大きく分けて4つある。

(1)古刀(ことう)飛鳥時代大宝(西暦701年)から安土、桃山時代(1595年)までの894年間。
(2)新刀(しんとう)慶長元年(1596年)から江戸時代後期享和3年(1803年)まで207年間。
(3)新々刀(しんしんとう)文化元年(1804年)から江戸時代終わり慶応3年(1867年)まで63年間
(4)現代刀(げんだいとう)明治(1868年)から現代(2003年)まで。

形状で分けると太刀と刀に分別出来る。太刀は主に馬上戦で便利。刀は地上戦に用いると良いと言われている。

鉄のおはなし(2)刀の五ケ伝について

日本刀における五ケ伝とは5つの名高い刀剣製造産地が全国にあったということ。以後、その流れをくむ刀工が各地で刀を作り、それぞれの特徴を残しつつ現代に至るものもあると言われている。(主に古刀について話す)

(1) 相州伝(相模、鎌倉中心)

刀剣鑑定の歌に「相州伝は重ねは薄く、幅広く、切先のびて真の棟(注1)なり」と言われ行光、正宗を中心に多くの刀工が世に出た。正宗ののたれ刃文が中国の水墨画のようにすばらしく、高い評価を得ている。棟の形も他と異なり真の棟の作刀を行った。これも特徴だ。有名刀工は国光、国広、貞宗、助綱、綱広、広正、正広など(新刀、新々刀にも綱広あり)。

(2) 美濃伝(関市中心)

「美濃物は焼刃はとがり沸(にえ)つかず鎬地(しのぎじ)(注2)、柾目、膚は白ける」と言われ濃州赤坂住兼元は三本杉刃紋で有名。別に二代兼定は刃紋が互の目乱(ごのめみだれ)、のたれ乱、直刃などあり、之定(のさだ)の名を切り名刀と言われている(もちろんニセモノも多し)。他に兼氏、兼友、兼房など。新刀、新々刀、そして現在に至るも、多くの刀工が作刀に業を伝えている。

(注1)棟(むね)の名称:刀の断面の形によって次のように付けられています。

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(注2)鎬地(しのぎじ):
Aに現れる木目の柾目のような鉄はだを言います(鉄のきたえ方によって表われると言われています)

(3) 備前伝(岡山県備前市長船町附近)

刀剣鑑定の歌に「備前もの手元三寸、反り高く、匂は深く、棟焼かぬなり」と言われる。備前は古刀時代から日本を代表する大生産地で名工を多く輩出している。奥州太郎と言われる古刀「正恒」が徳川美術館に所蔵され、今から千年程前に作られた傑作だと言われている。ここ備前が大生産地であった証は、古刀時代894年間で、全国に刀工8700人程が活躍していた内で、備前には2300人がこの時代、作刀にはげんだ。(名前だけ変えた同人の刀工も多々居たと聞くが。)

備前の刀工兼光は鉄砲切り、石切り、甲割り、で知られ伝説的刀工として有名である。 実際に石が切れたかどうかは疑わしいが、甲割りは現代の剣の達人によって実際に行なわれたことが知られている。勿論、刀は兼光ではないが。

刀は武器であり道具である。ゆえによく切れ、折れず、曲がらずを目差して作られ、性能のよい刀は美しく真に魅力的である。武器や道具であった刀が、ある時代から進物品として多く用いられる様になると、美術的価値が加わり、名刀と言われる刀が大名達の間で収集されるようになった。現在では、多くの人々が美術的価値に主眼を置き、日本刀を取り引きしているようだ。

(4)山城伝(京都を中心)

京都は刀の歴史も古く、早くから有名刀工が活躍している。その代表格は三条宗近で平安中期から作刀していたと言われている。日本刀の祖で宗近の子供に吉家あり。他に有国、近村、宗利、有成(河内で作刀した)が有名で刀紋は直刃あり。丁子刃紋あり。

時代は下って、山城には刀の名門各派が生まれる。粟田口派(京都粟田口)来派、綾小路派、長谷部派など。

今回は視点を変えて刀の外形を見比べて見たい。外形で一番の特徴は刀の反りで、誰が見てもわかりやすい。たとえば(7)山城の刀と(5)(6)備前の刀、姿の違いがはっきりわかる。(1)は備前光忠で織田信長が大変好んだ刀として有名で「名物」と言える。(2)は五ヶ伝には含まれないが日本刀の初期の伯耆(島根県、ホウキの国)の安綱で「名物」。時代的には永延年間(987年頃)で平安中期の作品だとされている。

katana_large.jpg1.備前 光忠(丁子刃紋)
2.伯耆 安綱(直刃もつれ小乱れ刃紋)
3.備前 正恒(直刃紋)
4.山城 定利(綾小路派の名物、丁子乱れ刃紋)
5.備前 長光(丁子刃紋)
6.備前 国宗(直刃丁子刃紋)
7.山城 来国光(来派の名物、直刃紋)
8.山城 来孫太郎(細直刃紋)
9.相州 無銘(のたれ乱刃紋)

(5)大和伝(奈良を中心)

「大和は国のまほろば」と言い継がれて久しい。古代より大和は日本そのものであったし「日本のいちばんよい所」という意味である。

古刀における大和の刀剣も同じ事が言えるだろうか。否、京に都が遷ってからは、大和が歴史の上で華々しく脚光を浴びる事は無くなった。京と奈良は地理的に距離が近い為に刀剣の区別でも「山城、大和」と一つに言われることも多く、作風も類似点がある。

大和伝→幻の刀工として天国(アマクニ、大宝年間701~704年)あり。天国は文武天皇の宝剣「小烏丸(コガラスマル)」を造ったと伝えられている。同時代の天座(アマクラ)は天国の弟子か弟だと伝えられている。時代は下って平安時代後期に千手院(センジュイン)派の重弘(仁安年間1166~1169年)、当麻派の国行(正応年間1288~1293年)、手掻(テカイ)派の包永(カネナガ、正応年間)、尻掛(シッカケ)派の初代則長(正応年間)、保昌派の貞吉(文保年間1317~1319年)が代表格で刀の姿は腰反り気味な所も山城物に似ていて、地鉄肌は細かく地沸(ジワキ)、刀の切先の形は小丸が特徴である。

実は豊橋市の東北部に有名な古寺(徳川時代に最も栄えたと伝えられている)があり、天国が寺宝として伝承し、以前、刀剣鑑定を受けた様だが正式な発表や、宝物とした展示がない所をみると、真偽が判明しなかったと思われる。刀剣に明るい人なら天国と聞いただけでも大事件である。私の私見だか、天国はすでに刀の形をした、錆びた鉄の板と化して寺の奥に眠っていると推測する。どんなに刀の経歴が正しくとも、刀の心鉄が表に出ていたり、刀剣の体(てい)を成していない物は刀と言えず、ただの錆鉄だ。でも寺ではこれからも永く寺宝として未来に伝承されていくだろう。

以前にお話しした事で、私の認識の誤りを説明しなければなりません。ある時、上智大学名誉教授(1993年の文章)森岡健二氏の書かれた文章を読み、私は考え込んでしまった。この表現が良いのか悪いのかということ。それは私がここで度々使っている言葉で「日本刀」という表現だ。

森岡教授のお話しは日本語の語彙を省略して表現してしまう事。例えば日本人には解るが表現としておかしいという文章例「私はうなぎ。山田君はトンカツ」。これで食堂の人への注文は理解出来るが、場面が変わったらこれは文としては十分におかしい。私(人間)はうなぎにはなれないし、山田君も多少太っていたとしてもトンカツには決して成りえない。

私の話に戻すと、私が書いた「日本刀」とは、正確には「日本で作られた刀剣」の意味で、これからも「日本刀」と書くかもしれないが、「日本で作られた刀剣」の意味で御理解いただきたい。歴史的に古刀、新刀の時代には日本で作られた刀は違(たが)わず、日本人が日本の材料(和鋼)を使って作った刀剣であり、刀と言えば100%日本製であるから、「日本刀」と言わなくても「刀剣」と書けば、それで良いと思う。別の考え方をすれば「日本刀」と書いた方が解りやすいし、「刀剣」では誤解を招くかもしれない。でも日本の和鋼をこよなく愛する私としてはここにこだわりたい。

古代から現在に至る日本人の刀剣に対する思いや、考え方を考察すると、日本の刀剣は神話以来、神から授けられた砂鉄(思い込みが多々あると思われるが)から、たたらにより精錬された和鋼(玉鋼:タマハガネ)のみが、日本の刀剣になるのだという強い信仰のようなものが作者(刀工)にも、使用者(武士や国民)にもあった様に思われる。私も同感だが日本人は何事に付けても思い込みが強い様に思えてならない。たかが鉄の刀の話なのに。

思い込みと言えば、日本には鎌倉時代初期に生きた有名人で、刀剣界に多くの影響を残して行った名高い方を次回紹介します。

その人の名は後鳥羽上皇です(つづく)。


五ヶ伝から離れて、ちょっと寄り道(刀剣の弱点)

主に古刀を中心に(新刀にも言えることだか)室町時代のある時期から、名のある優れた刀剣(名物)が公家、武士の間での進物として、重要な品になっていったと言われている。刀として武器の良し悪しだけはでなく、美術品的な扱いをうける様になると、公家、武家はじめ徳川御三家も名刀と言われる刀を集めた。理由を考えると、戦国時代、隣国との戦いで勝てば、相手の土地、財産などを恩賞として味方の家臣に分配できたが、天下統一してのち各地の小さな反乱や部分的ないくさに、土地や多額な金、銀を与える余裕が無くなる。鎌倉幕府の内紛の原因や、秀吉の朝鮮出兵も家臣に与える土地を求めて行った事が推測される。古来、刀剣自体は三種の神器の1つに数えられ(他に鏡と玉)、神格化した物のひとつとして崇められていたし、それを利用したと思われる。現代でも言われる言葉に「この刀は、わが家の家宝で○○様(殿)からいただいたもの。」と言う話しは多く聞かれる。刀の金銭的価値ではなく、自分の御主人(殿様)からいただいたことに大きな意味があって、それは確かに家宝である。

以前、刀は折れず、曲がらずよく切れて・・・・・と書いたが、これを、すこしおかしいと思われた方々も居たのではないかと。古来、日本の戦の中での刀の武器としての位置を考えてみたい。鉄砲が伝来し使われる様になるまでは、弓や槍が戦闘の主な武器で弓対刀では、弓が勝つだろう。接近戦で刀対槍でも槍の方が強い。組み合いになって初めて短刀、よろい通じ、脇差しを使い、相手の首を切ったであろう。そうです。刀(長・短は別として)は、人の首を切る為の武器だったと考える事が正しいのです。私も自分が兜を着て戦ったなら、刀では相手をたたき倒すか突くか、首を切るのに使うだろう。私が槍を持っていたら、刀より槍で戦うだろう。私の槍が刀の相手に負ける気はしないからだ。

刀が折れることについては、江戸時代、寛永11年(1634年)11月、伊賀上野城下で起きた仇討事件。荒木又右衛門と河合又五郎の事件で荒木側は4名、河合側は11名でした。河合方の桜井半兵衛は槍の使い手。荒木の作戦は、まず桜井の槍を封じる事に尽力し、槍を使わせず刀だけの戦いに持ち込んだことが、少人数でも勝てた原因だと言われている。
それでも荒木は相手の1人の木剣で刀をたたき折られている。刀の側面を強打すれば、曲がるし折れる。これが刀剣の1つの弱点です。

武器としての刀が好きな私ですが、刀剣の武器としての弱点を故意に隠すことはしない。刀の弱点を認めたとしても、それに余る程の魅力が刀剣にはあるからです。

第1回 東三河支部 総会

みかわ支部

平成14年9月7日 グリーンホテル三ヶ根にて

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