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(5)道南から青森へ

数年前、苫小牧にフェリ-で上陸し道南、青森への旅に出た。北海道は光あふれる新緑の季節で、道路脇に咲く大型の黄色いタンポポがとても美しい。支笏湖への国道276号線は特にタンポポが眩しく、広くはない道だが高速で走れる快適な道路だ。

支笏湖では樽前(たるまえ)山を船上から望み、春の湖水の深い藍色(水色)を楽しんだ。次に白老を尋ねた。ここは旧仙台藩の陣屋跡が残されていて、蝦夷地(北海道)の開拓、治安を行っていた。と断言出来るのは仙台側の言い分で、蝦夷の人に言わせれば「海産物、資源その他、お金になるものなら何でも略奪同然の取り引きをする為に、駐屯しているのだ」と言うであろう。どちらの立場も理解出来るが、当時北海道には多くの勢力が、分散し、徳川幕府に対抗する力が無かった。史実として、江戸時代最大の戦が1669年(寛永9年)、日高地方の蝦夷の酋長シャクシャインとの間であった。

その時松前藩は、津軽、南部、秋田各藩に応援を求め合同で反乱をおさめたと言うことが歴史書にある。ここでは徳川側の歴史の記述は戦(たたかい)ではなくちょっとした反乱であったと記してある。蝦夷の人に言わせれば、アイヌ魂を傾注した崇高ないくさであったと言い伝えられているだろう。歴史の真実は、片方だけの歴史を紐解いても決して解明されないだろうし、世界の歴史がそれを証明している。

実は私の五代前の先祖も仕事で仙台から、白老に出張していたと聞いたので、ことのほか興味を持って見学した。

白老を発ち、羊蹄山を右手に仰ぎ、長万部から国道5号線を南下し、大沼を船でめぐった。次に函館へ車を進める予定であったが、江差町の南の上ノ国町、夷王山で旧砦の発掘を行っていると知り、変更し江差へ回った。江差では追分会館と咸臨丸を見学し、上ノ国へ向かった。ここは花沢の館(やかた)で蝦夷の有名人、コシャマインと館の城主が戦った砦の跡だと言われ、山の中腹の発掘調査を上ノ国教育委員会が行っていた。私が訪ねたのは、天気の良い昼休み時であった。丁度、炭化した木材の破片や、黒く焼けた土の調査を行っていた所で、合戦で焼かれた建物の跡だった。町の若い担当者が迎えてくれて、貴重な時間を割いて説明していただき恐縮した。彼の仕事への情熱に心暖かくなり、今後の長い発掘作業の無事を願って現場を去った。2時間程を過ごし、駐車場から車を出したら北キツネが見送りに顔を出してくれた。

函館にもどり陽の高いうちにロ-プウェイで函館山へ登ったがここは夜の方がいい。

国内唯一と言われる西洋式城閣五稜郭は、江戸時代末期、外国船の渡来に備え、北海道防衛の為に、徳川幕府が造った城で安政4年(1857年)着工、元治元年(1864年)に完成した。当時の城主は小出秀実(函館奉行)で、5つのでっぱりのある星形、フランス式の近代城だ。
五稜郭の外堀に立ち、以前の自分の旅を思い出してみた。大学生の頃の旅はすべてが楽しく、何を見ても嬉しく心豊かであったが、実際は食費を節約する貧乏旅行だった。

翌日の午前青森へ。高速フェリ-に身を委ねウトウトしながら三内丸山遺跡の事を考えていた。遺跡の周囲は白いニセアカシアの花が咲き、見学者を迎えてくれる。
展示館の栗の大木の支柱の一部を見せられた時、想像を超える大きさに驚き、この青森のいにしえの森にも立派な樹が生えていたことが証明され嬉しかった。糸魚川産のヒスイが発掘されたり、北海道の黒曜石(現在でも日高山地で取れるとのこと。)の矢じり、石ナイフの出土を見ると、船を使い海洋航行していたことが十分想像出来る。すでに言われているがここへ来て縄文文化の質の高さを多々見せられ、私の定説もくつがえされた。

三内丸山を巡って感じたことは時間と言う1本の糸だけが、今と昔を結ぶ唯一のものなのかもしれないこと。私にとって過去を見つめ、今を生ることが、たったひとつの未来に通ずることなのかもしれない。

八甲田、十和田湖を巡り、旅を終えた。

(追記) 星形の五稜郭について
陰陽道で星印☆は、晴明星(せいめいせい)と呼ばれ星印にはどこにも出口がないので魔を封じ込めると言われている。(禍福吉凶も占いに頼っていたと思われる節があり)築城、設計に当たり星印に吉祥を見出しそれにあやかった様だ。晴明とは平安時代中頃の陰陽道の大家、安部晴明のことである。京都上京区西陣織会館の南に晴明神社があり、近年大変にぎわっていると聞く。

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