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- (4)備中松山城(岡山県高梁市)から高松城跡へ(03/03/01)
- (3)いにしえの鉄の故郷(03/03/01)
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2003年に書かれた記事一覧
| (7)那須のペンション | 2003年3月 1日(土) ちょっと旅 |
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「私は旅と鉄がすきである。」この文章は私が最初に書いた言葉だ。旅にはいろんな楽しみ方や、喜びや、反対にアクシデントも付きものだ。楽しみの中で私はある時期から宿にこだわりを持って旅を考え実行してきた。
普、学生のころは「とにかく安く。」これだけで何のこだわりもなかった。だが近頃は、いかに気分のよい宿に廻り含えるか、ひたすらに捜している。「気分のよい。」とはあくまで個々人の感性であって、ほかの人にはそう感しなくても私が良いと感じられれば良いという程度の事でしかない。形式的なことでいえぱ、まずバリアブリーの宿を探して泊まることだ。老人と一緒に旅に出て困ることは階段であり、かっこよさに重きを置く宿は膝の悪い人にとって、怖い宿に変わってしまう。大型のホテルは設備の上では含格だが、家庭的なところを選んで探すと、小規槙な宿、民宿、ペンションになる。
ペンションについて話をすれば、7年前の6月の暑い日に岡山県の牛窓にある宿(ペンション)に泊まった。季飾外れで、空いていて快適であったし、丘の上で見晴らしもよくて300度オーシャンビュー、芝生の庭、テラス、植木も・・・・立地は良かった。その中で気になったのが、2階への狭い階段と部屋数が多くて廊下が長く、狭く暗かったことだ。加えて料理の皿数の少なさも。「価格に見合っている。」いってしまえば、それまでだが、ここで私の中のこだわりが目覚めた。
「よし、料理が良くて、家庭的で、バリアフリーの宿を探そう。」
それ以来、旅の計画の段階で、そんなペンションをさがした。だが料理に満足でき、家庭的で、気分のいい宿は時々当たるが(とまってわかる)パリアフリーが見つからない。
南会津郡の塔のへつり、大内宿、そこのねぎそば、裏磐梯、蔵王の旅に出たとき、2目目に宿に決めた那須のペンションが平屋建てでパリアフリー。おまけに天然温泉で野天風呂あり。まだまだ若いと思われる夫婦の宿で、料理もオリジナリティーがあり、おいしく、那須の名物アイスも出る。初めてのバリアブリーの宿としては大満足でうれしくなった。
那須の高原を少し外れたところにあるこの宿は、周りが田んぼや雑木林。野天風呂のすぐ前が大きな囲んぼで、その向こうが那須高原の裾野の雑木林。
訪れたときは、小雨で山は望めなかったが、雨の野天も趣があってこれもまたいい。勿論、隣に小さな室内風呈もある。ビテオテープ、本も揃っていて連泊によい。朝食が驚き。たっぷりの洋食の食材が出て、パンも食べて、それに加えて和食のメニューも出てくる。年配者にはご飯がうれしい。加えてお米がすこぶるうまい。
我々が尋ねたのは紅葉のころ。金曜泊まりの土曜立ちだったので、宿泊者が多かった。すこしすいたときに訪れたい良い宿だ。前庭の芝生もグッドだし、すぐ東側に小川が流れていて、雑木林の小道もあり、宿の周囲を散歩してみたが、なだらかな坂やカーブの道、数件の農家の庭先をめぐってきたが、静かで落ち着ける道だった。
三日目の宿は裏磐梯のペンションで大期待。事前に調べてあって、二階には座って登れる小型エスカレーターが完備しているとの情報であったので、この宿に決めたが、実際は大違い。エスカレーターはぜんぜん動かないし、部屋もユースホステルふうの狭いもので、窓も小さく、暗く、部屋数が異常に多い。学生相手のキヤンプロツジみたいでがっかり、そして驚いた。あまりの失望に、どんな風呂に入ったか記憶にない。早く忘れたいという気持ちがそうさせたのだ。早朝、日の出前に霜の下りたフロントガラスをふきふき、湖の撮影に出かけて、朝もやの中の小島と湖面の神秘的ないい写真が撮れたことが、たった一つの思い出だ。
四目日の宿は蔵王のスキー場の近くのペンション。日曜泊まりの月曜立ちだったので、ここも客は多かったが、東京の常連の学者風の方と懇意になり、話し込んで遅くなったら、夜食に手打ちそぱをご馳走になった。修行中の娘のだんなさんが打ってくれたもので、オーナー家族と楽しいひと時を持てた。睡眠時問は短くなったが、旅を濃く味わった気持ちになれた。永く忘れない。朝食は奥様の手作りパンが大皿いっぱい出てきて、おいしく、うれしかった。
五日目は仙台の東北大学医学部の北にある我が家の菩提寺を訪ね、参拝し、多賀城址にむかった。陸奥の国が大きな力を持っていたころのことを、史跡の石畳に立ち、おもいをはせた。向かいの丘に、ベガルタ仙台のドームがまぶしく輝いている。
今日の宿、秋保温泉に向かった。(つづく)
ペンション 遊・スマイル 星空独占の賃し切り露天風呂でのんびりと!!
〒325-0302 那須郡那須町高久丙2564-3 Tel./Fax.0287-77-2731
特色:乳幼児連れの家族や高齢者も安心して利用できる平屋造りのペンションです。
食事:和洋析衷のコース料理(やさいたっぷり)!
料全:1泊2食付(税込み) 8,800~9,800円 こども料金あり(料金は確認してください。)
オーナー:宮下順夫 裕子
建物:1997年 新築 同年開業
| (6)もう1つの五陵郭 | 2003年3月 1日(土) ちょっと旅 |
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函館の五陵郭は日本唯一の西洋城閣だと言われているが、私は数年前に、日本にももう1つの五陵郭があることを知った。
| 龍岡城(五稜郭)跡 | 石碑:史跡龍岡城址 |
あれから何ヶ月たったのだろうか。春の雨に濡れ、長野県佐久市の南隣り臼田町の龍岡城を訪れた。ここ臼田町は岡崎市、豊田市の松平氏と深い関係のある土地です。徳川家康の先祖4代前の松平親忠の二男乗元が大給(だいきゅう)松平氏を興し、その五代目が奥殿藩主となった。その奥殿氏が、大阪の陣の戦功によって信州佐久に1万2千石の領地を与えられた。
その奥殿藩の佐久のお城が龍岡城で、その城が何と西洋式五陵郭なのです。規模は函館には及ばないものの、立派な星形五陵郭です。本丸と西北の石垣の一部が、中学校の運動場と校舎に利用され、郭をとり囲む桜の樹が五陵郭の堀の水に映えて、美しいであろうことを想像させてくれる。堀の外に新しい茶店風の建物が作られ、地元の人の親切な御接待を受け、旅の出会いの楽しさを味わった。静かな農村に囲まれ、落ち付いた味わいのこの五陵郭も興味深い名所と言えよう。
| (5)道南から青森へ | 2003年3月 1日(土) ちょっと旅 |
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数年前、苫小牧にフェリ-で上陸し道南、青森への旅に出た。北海道は光あふれる新緑の季節で、道路脇に咲く大型の黄色いタンポポがとても美しい。支笏湖への国道276号線は特にタンポポが眩しく、広くはない道だが高速で走れる快適な道路だ。
支笏湖では樽前(たるまえ)山を船上から望み、春の湖水の深い藍色(水色)を楽しんだ。次に白老を尋ねた。ここは旧仙台藩の陣屋跡が残されていて、蝦夷地(北海道)の開拓、治安を行っていた。と断言出来るのは仙台側の言い分で、蝦夷の人に言わせれば「海産物、資源その他、お金になるものなら何でも略奪同然の取り引きをする為に、駐屯しているのだ」と言うであろう。どちらの立場も理解出来るが、当時北海道には多くの勢力が、分散し、徳川幕府に対抗する力が無かった。史実として、江戸時代最大の戦が1669年(寛永9年)、日高地方の蝦夷の酋長シャクシャインとの間であった。
その時松前藩は、津軽、南部、秋田各藩に応援を求め合同で反乱をおさめたと言うことが歴史書にある。ここでは徳川側の歴史の記述は戦(たたかい)ではなくちょっとした反乱であったと記してある。蝦夷の人に言わせれば、アイヌ魂を傾注した崇高ないくさであったと言い伝えられているだろう。歴史の真実は、片方だけの歴史を紐解いても決して解明されないだろうし、世界の歴史がそれを証明している。
実は私の五代前の先祖も仕事で仙台から、白老に出張していたと聞いたので、ことのほか興味を持って見学した。
白老を発ち、羊蹄山を右手に仰ぎ、長万部から国道5号線を南下し、大沼を船でめぐった。次に函館へ車を進める予定であったが、江差町の南の上ノ国町、夷王山で旧砦の発掘を行っていると知り、変更し江差へ回った。江差では追分会館と咸臨丸を見学し、上ノ国へ向かった。ここは花沢の館(やかた)で蝦夷の有名人、コシャマインと館の城主が戦った砦の跡だと言われ、山の中腹の発掘調査を上ノ国教育委員会が行っていた。私が訪ねたのは、天気の良い昼休み時であった。丁度、炭化した木材の破片や、黒く焼けた土の調査を行っていた所で、合戦で焼かれた建物の跡だった。町の若い担当者が迎えてくれて、貴重な時間を割いて説明していただき恐縮した。彼の仕事への情熱に心暖かくなり、今後の長い発掘作業の無事を願って現場を去った。2時間程を過ごし、駐車場から車を出したら北キツネが見送りに顔を出してくれた。
函館にもどり陽の高いうちにロ-プウェイで函館山へ登ったがここは夜の方がいい。
国内唯一と言われる西洋式城閣五稜郭は、江戸時代末期、外国船の渡来に備え、北海道防衛の為に、徳川幕府が造った城で安政4年(1857年)着工、元治元年(1864年)に完成した。当時の城主は小出秀実(函館奉行)で、5つのでっぱりのある星形、フランス式の近代城だ。
五稜郭の外堀に立ち、以前の自分の旅を思い出してみた。大学生の頃の旅はすべてが楽しく、何を見ても嬉しく心豊かであったが、実際は食費を節約する貧乏旅行だった。
翌日の午前青森へ。高速フェリ-に身を委ねウトウトしながら三内丸山遺跡の事を考えていた。遺跡の周囲は白いニセアカシアの花が咲き、見学者を迎えてくれる。
展示館の栗の大木の支柱の一部を見せられた時、想像を超える大きさに驚き、この青森のいにしえの森にも立派な樹が生えていたことが証明され嬉しかった。糸魚川産のヒスイが発掘されたり、北海道の黒曜石(現在でも日高山地で取れるとのこと。)の矢じり、石ナイフの出土を見ると、船を使い海洋航行していたことが十分想像出来る。すでに言われているがここへ来て縄文文化の質の高さを多々見せられ、私の定説もくつがえされた。
三内丸山を巡って感じたことは時間と言う1本の糸だけが、今と昔を結ぶ唯一のものなのかもしれないこと。私にとって過去を見つめ、今を生ることが、たったひとつの未来に通ずることなのかもしれない。
八甲田、十和田湖を巡り、旅を終えた。
(追記) 星形の五稜郭について
陰陽道で星印☆は、晴明星(せいめいせい)と呼ばれ星印にはどこにも出口がないので魔を封じ込めると言われている。(禍福吉凶も占いに頼っていたと思われる節があり)築城、設計に当たり星印に吉祥を見出しそれにあやかった様だ。晴明とは平安時代中頃の陰陽道の大家、安部晴明のことである。京都上京区西陣織会館の南に晴明神社があり、近年大変にぎわっていると聞く。
| (4)備中松山城(岡山県高梁市)から高松城跡へ | 2003年3月 1日(土) ちょっと旅 |
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あるアメリカの女性キャスタ-が、中国の万里の長城を訪れて言ったことは、「小さな石を積み重ね、偉大なものを作ったもんだ。」と。私は万里の長城を知らない。写真でみても 綺麗に整備された長城には日干しレンガ、自然石、切り石が壁に使われている様に見える。だが通路の階段には大きな切り石が使われているのを見ると、彼女の言葉を疑ってしまう。小さな石だけで作られているとは思えない。
私も岡山県備中松山城を尋ねた時に彼女と同じ事を呟きそうになってハッとした。この城の天守閣は、昭和のある時期まで、森に帰ってしまうのではないかと思われる程、荒れていた。石垣に生えた樹の根が、石垣を壊し、城の壁板は腐り、屋根瓦は、崩れかけ冬の北風にも天守閣全部が自壊を起こしそうな、そんな状態であったと聞く。有志の 基金をもとに、木造天守閣を復現し今に今に至っているが、遠目に見たその石垣も小粒に見える。
この城は高梁(たかはし)川にすそを削られ、急峻な山に築かれた山城だ。すぐそこに見える天守閣が登れどのぼれど、又石垣が現れる。この険しい山城の石垣でも人の体に比べたら大きいし、山頂近くの石組はどこから運んで積んだのか、思いあぐねてしまう。
汗をかきかき、やっとのことで大手門にたどり着いた。この城のすばらしさは、その石組であり石垣のひとつひとつの高さにあると思う。大手門の石垣もその高さと、空を切り裂くような迫力には感動する。もう1つの大きな驚きは、大手門に至ると、城主が「登城、ご苦労であった。」と我々を迎えくれることだ。口元がゆるみ笑ってしまう自分に気づく。そして全身の力がス-ッと抜けた。
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午後、高梁川に沿って国道80号線を南下し、総社の備中国分寺を訪れ、吉備津神社に参拝し、大鳥居の高松稲荷への道途中の高松城跡を目差した。吉備津神社は「鳴釜の神事」で名高いが、他に「吉備津丸」と言われる日本一の大太刀でも有名である。作者は備州長船法光(おさふねのりみつ)で出来は大変優れていると言われている。当地、愛知県でも熱田神宮は大太刀の寄進が多く、匠達の業が見られる。
さて高松城跡は虚しく田園の中にたたずんでいて、何故ここに城を築いたか理解に苦しむ。ここより北西に鬼ヶ城があるが、今回の訪問を諦め、今日の宿 牛窓へ向かった。
明日は備前、赤穂を尋ねるつもりだ。
| (3)いにしえの鉄の故郷 | 2003年3月 1日(土) ちょっと旅 |
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昔から頭の隅にこびり付いて離れないことがある。山陰地方の鉄の事だ。以前、国道9号線を通って九州を訪れたことがあったが、今回、鉄の故郷と私が思い込んでいる島根県、の山間部をたずねた。山陰道の安来ICを降り県道45号を南下し、国道432号線に入り、仁多郡仁多町へ向かった。国境の久比須峠を越えるとそこは亀嵩。松本清張の小説で有名だ。道が村中に近づくと斐伊川の支流にあたる。この川の支流でも、砂鉄を取った跡があったはずだ。綺麗な黄色に色付いたカエデの小山が黒い砂鉄を抱いて、今も眠っているかと思うと、明日にでもカエデが赤く色付くのではないかと期待してしまう。私にとっては宝の山に思える。道を吉田村へとった。ここ吉田村は昭和にたたら製鉄を復活した村だ。ここに来て初めて知ったことが2つある。ひとつは、砂鉄には黒と赤がある事。もうひとつは、たたら製鉄にも水蒸気爆発がおこるという事。勿論、今は爆発に対する方策は十分に取られそのようなことはないと聞いている。
歴史上では、石器、青銅器の時代が過ぎ鉄器時代となり、ここ山陰山陽の山中が時代の先端を行くハイテクタウンとなった。そして鉄は今に至るまで産業の中核にあると私は確信する。鉄の偉大さは、変幻自在さにあると私は思う。時に軟らかく、又時に硬く、延性にも富み、他の元素(金属)とも混じり、性質を変える。それでいて、土中、水中では不安定となり、さび(酸化鉄)となって、ついには消えてしまう。また鉄自体が部分電池を作ってしまい、自ら微細な穴を開けてしまう。いわゆるピンホ-ル。なぜか、鉄と人間を比べてしまいおかしい。自虐的なところが、そっくりに思えてならない。
この山陰のいくつかの村にはたたら製鉄に関する多くの資料や、展示品があり、興味のある私にとっては、ここはまさにワンダ-ランドだ。毎日毎日通いつめて、現(うつつ)をぬかしたいくらいだ。春や秋だけでなく、厳しいだろう冬の美しい村々や道や、たたらを訪ねたい。
帰路、安来市の博物館に立ち寄った。残念なことがある。以前ここには日本刀の大変興味深い研究が発表されていた(大学の高名な先生によって)。その内容は刀を切断し、鉄の中をのぞくもので、これ程の研究発表は日本にここだけだと思ったからである。蒜山高原のペンション、ピ-タ-パンにお世話になり、翌日、自分の中の寂しさと憤りをおさえこみ、山陰から瀬戸内海にぬけた。今でも物館のことを思うと悔しさで胸がつまってくる。今回の旅の大きな喜びの後に、やはり寂しさも私には付いて来た。




